1.与論島の間切と村
与論島は1609年以前は琉球国の領域である。1783年頃の与論島を見ると、東間切と大水(西)間切がある。東間切は茶花村、麦屋村、中間村の三つの村、大水(西)間切は朝戸村、瀬利覚村、吉里村の三つの村からなる。興味深いのは二つの間切があるが、東西あるいは南北に区分されていず、大水(西)間切が島を中央部を東西に横切る形となっている。東間切大水間切に分断された形で、北側に茶花村と中間村があり、大水間切を飛び越えた南側に麦屋村がある。そのような間切の分け方は沖永良部島でも見られた。それは古琉球の間切の領域区分と村の関係を示している可能性がある。
まずは、与論島の歴史をなぞってみることから。
【正保国絵図】(1644年)の与論島の情報(小地名まで)

「琉球国絵図史料集第一集―正保国絵図及び関連史料」所収より
(沖縄県教育委員会)
・与論嶋
・間切名の記載なし
・むきや村 ・むきや村之内あがさ村
・異国船遠見番所 ・池(5) ・めなさ ・地はなれ ・赤崎 ・かね崎 ・こはてずの濱 ・あがさ泊
享保年間( )に東間切と大水間切のニ間切と六村である。
大水間切・・・朝戸・瀬利覚・古里
東間切・・・・・麦屋・茶花・中間
二つの間切が抱えた村について、「当時の間切は今の行政区画で考えるような区画ではなく、現実的で非常に密接かつ有機的発想による間切構成だったのではないか」(『与論町誌』227頁)と。私は全く逆の薩摩の琉球侵攻以前の「古琉球」の緩やかな間切と村の関わりの延長にあるのではないかと考えてきた。
「茶花は与論の玄関口であり唯一の重要港で、ここから物資や人の出入がなされていた。当時島の中枢機構は全て麦屋村の城にあった。したがって茶花と城は直結していなければならない。茶花には城の出先機関としての港・蔵・番所などが置かれて、城の直轄村的存在であったのではないか」(『与論町誌』227頁)と。与論グスクと城集落、そして港、さらに城から移動した人達で形成された瀬利覚(立長)(散在型集落)との関係をしる手掛かりとなる。
「琉球国大島国絵図与論島」(1702年)に「和泊より与論島之内あがさ泊迄・・・」「このあがさ泊入り・・・西風北風之時船繋可成」あがさ泊より沖縄嶋迄・・・」とあり、あがさ泊(あがさ村)が与論島の重要な港(村)として機能していた。あがさ泊が与論島の玄関口になっていた。
▲現在の茶花漁港付近
現在の与論町は行政区として9つある。集落は朝戸・城・麦屋の三ヶ所で、麦屋は西区・東区・城?に区分される。立長と茶花は主に城と朝戸、那間と叶は朝戸、古里と東区は麦屋出身の人で構成されている。与論島では沖縄本島のようなムラレベルでの祭祀や祭祀空間がなく、祭祀も行われていないようである。
@朝戸(あさと) A茶花(ちゃばな) B那間(なま) C古里(ふるさと) D(東区 E西区 F城(ぐすく))
G立長(りっちょう) H叶(かのう) ※麦屋(東区・西区・城)
・茶花にフェリーが寄航する港や役場がある。
・空港は立長にある。
2.与論町の大字
@朝 戸
朝戸は与論島の中央部に位置し、大水(西)間切のうち。古里と那間は朝戸からの別れだという。朝戸自治公民館や按司根津栄神社、高千穂神社などがある。また町指定の磯振墓があり、そこには花城真三郎、殿内与論主、田畠首里主が葬られているという。その墓は50年毎に漆喰を塗りかえているという。朝戸には神井戸(ハミゴー)や木下井がある。神井戸の水をニチェーサークラのシニグ神や按司根津栄神に供える(『与論町誌』)。明治2年にターヤバンタ(高屋半田)に高千穂神社が建立される。沖縄本島が望める。
▲木下ゴー ▲神ゴー(木下ゴーの向かい)
▲按司根津栄神社 ▲按司根津栄神社にある墓

▲磯振(イシュブリ)墓 ▲磯武里墓の由来碑
A茶 花
現在の茶花は赤佐村と茶花村からなる。集落は茶花港の東付近に発達している。寛文8年(1668)に「むきや村あかさ村」と登場する。東間切の内。
B那 間
那間は中間から来ている名称。島の北側に位置し、シニグ祭の黒花ウガンや寺崎ウガンの場所がある。海岸から沖永良部島が見える。東間切の内で中間村と出てくる。黒花海岸にシニグ祭の黒花ウガンがあり、一帯は舟倉とも呼ばれているようで網干し場や祭り石がある。旧3月3日祭祀が行われる。

▲黒花海岸の祭り石 ▲黒花海岸の按司根津栄翁浜之跡碑
▲黒花海岸の黒花ウガンの網干し
C古 里
島の東部に位置し、南側に出毛の集落がある。東側に海岸があり百合ケ浜があり、ピャンチクパナリ(地離)がある。琉球国絵図に「異国船遠見番所」と記されるが未確認。大水(西)間切の内。
D麦 屋(東・西・城)
かつての麦屋は東・西・城に別れる。与論島の先住民の上陸地と言われる赤崎があり、そこにアマジョウがある。上城(ウワイグスク)も麦屋にある。城自治公民館の側にある麦屋ゴーは、与論島内一の湧水量があるという。麦屋は東間切の内。東部?のハンタは旗立石と伝えられ、ここに立てられた旗に海上から矢をニッチェーが船の帆綱を射落としたことから、東の海上を通る船がなくなったという(『鹿児島県の地名』平凡社)。沖縄本島が望める。
・城
城自治公民館の側に麦屋ゴーがある。島で水量の多いゴーのようである。
▲麦屋ゴーの説明板 ▲城自治公民館
▲麦屋ゴーの中の様子
・西 区
・東 区
E立 長
かつての瀬利覚村は立長(瀬利覚)を中心に麦屋・城の一部を含んでいる。北山王怕尼芝の三男王□が世之主として島に来て与論城を築いたという。与論城跡に琴平神社が建立されている。神社地内にウプドゥナタの墓地があるという。城の崖側に風葬跡地や崖葬の跡が見られる。大水間切の内。明治21年に瀬利覚村から立長村へ改称される(『鹿児島県の地名』平凡社)。
【与論島の崖葬墓】
崖葬墓のある場所は、崖に沿った場所に位置する。崖葬墓はギシと呼ばれているようで、シミヤー(シゴー)やメーバル(メーグチハンタ)にある。
『海東諸国紀』や『使琉球録』の以下の記録を見ていると、15、16世紀、つまり古琉球の墓や葬制について記されている。棺や屋など、墓の表現から見ると、どうも運天の百按司墓や崖中腹の屋形墓や木棺、南城市玉城前川(玉泉洞)の屋形や木棺、そして与論グスクの崖中腹の材木の残っている墓。15、16世紀の文献に記された内容が、運天が玉泉洞や与論の半洞窟や崖中腹にある墓だと特定できたら、古琉球の葬制や墓の形態が、もっと明確になるのだが。
『海東諸国紀』(琉球国)(1471年)(岩波文庫)
「国王の喪(そう)は、金銀を用(も)つて棺を飾り、石を鑿(うが)ちて槨(かく)為(つく)る。埋葬せず。屋(おく)を山に造り、以て之に安んず。後十余日、親族・妃嬪(ひひん)会して哭(な)き、棺を開きて尸(し)を出し、尽く肌膚を剔)えぐ)り、諸(これ)を流水に投じ、骨を棺に遷す。土庶人の喪も亦之の如し。但し石槨(せきかく)は無し」とある。
※・棺・・・屍体を入れるもの ・槨・・・棺を格納するもの ・
妃嬪・・・きさきとひめ ・尸・・・しかばね、屍体
・肌膚・・・はだ
『使琉球録:陳侃』(1534年)(「大明一統志」)(『那覇市史』冊封使録関係資料(読み下し編)
「子、親の喪の為に、数月も肉食せざるに及ぶ。亦其の俗之れ嘉とすべし。死者は。中元前後の日を以て、渓水もて其の屍を浴し、其の腐肉を去りて其の骸骨を収め、布帛以て之を纒ひ、□むに葦草を以てし□土して殯す。上に墳を起こさず。王及び陪臣の家の若きは、則ち骸匣を以て山穴中に蔵し、仍ほ木板を以て小□戸を為り、蔵時の祭掃には則ち啓鑰して之を視る。蓋し木朽ちて骨暴露するを恐るるなり」
▲半洞窟に残る墓の木材(屋根部分か) ▲屋形の墓に使われた材木(屋根を乗せる▲部)
▲崖葬地と見られる場所(シゴー付近) ▲崖下の墓
【南城市玉城前川と今帰仁村運天の百按司墓参照】
「崖葬墓」の中腹や麓に葬られているので、そのような呼び方がなされているようである。崖葬墓について『奄美与論島の社会組織」(加藤正春著)(49〜54頁)で、以下のような貴重な報告がなされている。
「与論島の南部、朝戸区、城区は高台であり、北東の二方向にゆるやかに下っている。高台の西、南側は崖で、前者は立長区に接し、後者は海に落ちている。この崖線に沿った三か所に、崖葬墓群が位置する。このうちの二つ、シミヤーには八個、メーバルには十三個ほどのギシ、すなわち崖葬墓がある。これらのギシは古くより共同墓であり、戦後すぐくらいまで用いられていた。その後、人々は多く海岸部の共同墓地を用いるようになり、これにともない各家の祖先の遺骨をギシから共同墓地に移した。ギシには三〜四世代以前の、名前のわからないため移すことができない骨が納められている。
・・・・ここでシミヤーをみてみると、これは島南部の海岸線の崖中腹に設けられており、ウイ(上)シミヤー、シチャ(下)シミヤーの二群からなる。高さ十数メートルほどの岩盤の中腹に設けられたのが、上シミヤーで、ここには二個ほどのギシがある。同じ岩盤の基部に設けられているのが下シミヤーで、ここには六個ほどのギシがある。かつてはこの崖の下部にフマヨーというギシ群があったが、岩盤の崩落で海に没したという。
・・・ギシの内部をみると、内部の右手に木製の棺(ハコ)が二段に重ねれておかれ、その後に甕がいくつかおかれている。・・・」
(・・・部は略してあります)
3.与論島のシニグ
・7月の行事
与論の場合は、時代によってシニグは大部変貌があるようだ。
・7月
17日のシニグ
シニグ本祭
舞踏をする(サアクラ、シニグ踊)
明治3年まで毎年
明治4年琴平神社が建立され、シニグとウンジャミの祭祀が廃止される。
シニグの7日前からヌルは神小屋で禊をする
ウンジャミは復活せず(明治
32年)
サアクラという集団(一門)の単位で行われている。
旧暦7月
16日 サアクラ作り・神道つくり
17日に本祭
18日 中休み
19日 直会・サアクラの片付け・神道直し
【茶 花】
シニグの行われる祭場をサアクラという。
茶花のハニクのシニグは高倉で行われていた。
その後、ミダラパンタの丘へ。そこでウタ舞の神遊びが行われる(パルシニグ)
戦後は高倉が焼けたので仮小屋をつくり、ミダラパンタへ。
シニグ元(ウプヤ)の屋敷の広場
サアクラの場所をシニグドゥクル、シニグドゥ(麦屋)という。
【シニュグ祭】(宮城栄昌)
ウンジャン(海神)祭と隔年で行われる。その意味について、沖縄及び大島各地で種々説明されているが、先祖神に収穫を感謝する祭で、来る年の豊凶を占うとともに豊作を祈願するものであったことは疑いがない。与論島の本祭は、明治初年の廃仏毀釈時に祝女や□巫が圧迫を受け、ウガン所の廃止、祭儀用衣類、珠玉などの破棄があって、明治5年から廃止されたが、明治32年に復活して、現在に至る。
旧暦7月16日のパルシニュグ
17日の本祭
18日は休み
19日村民全体の直会で終わる。
祭祀集団であるダークラ(サアクラ中心に行われる)。
パルシニグと迎えシニュグがある。
【シニュグの流れ】(『与論町誌』1084〜5頁)
シニグはシニュグとも呼ばれ、稲作と中心とした五穀豊穣、氏族の果報を祈願するという。
@隔年ごとに行われる。
Aシニュグのある年は16日からサアクラという仮小屋をつくる。
B16日に神道をあける。
C16日に男は一人当たり米二合、女性(男のいない家)は一戸あたり二合づつ座元に出し合う。
D座元は神酒をつくる人を選定し17日には神酒の製造を終える。
E17日に旗を持つ人は旗の準備をする。
F17日に神酒を一本持参し座元で祈願し神酒を飲む。神酒を飲むと次のシニュグまで厄介払いとなる。
G17日は本祭。少年は家打ち、大人は礼拝の儀式があり、その後酒宴に移り、日が没する頃神送りをし
て解散。
H18日は休み
I19日の午前中はサアクラや道を直したりする。
J19日の午後から所属するサアクラに一重一瓶を携え集まり酒宴をする。歌・三線・踊りで盛大に行われる。
Kシニュグの間、ケンカや口論は厳しく戒められる。
L死者のある家は17日の本祭には参加できない。19日の最後の日は必ず座元に出なければならない。