
| 各コーナの展示の様子 | 展示コーナーの説明 |
![]() @導入部門 ![]() @導入部門 ![]() A貴重資料(展示ケース内) ![]() B今帰仁村歴史文化センター ![]() Cムラ・シマの人々 ![]() D戦後の建物と物 ![]() E今帰仁村役所 ![]() F戦後の生業と新聞スクラップ ![]() G写真は歴史資料である ![]() H戦後の文書資料 ![]() I写真資料にみる今帰仁の戦後 ![]() J稲作が行われていた風景 ![]() K公文書綴などの文書資料 ![]() L塩田・運搬・道路工事など ![]() M戦後の字(アザ)の小字図 ![]() N行政文書類 ![]() O戦後の学校 ![]() P消え行く祭祀 |
@導入部門 今帰仁の位置図 村内19の字紹介(現在) 昭和45年頃の各字(沖縄タイムス) 今帰仁村の各字が戦後60年でどのように変わってきたのか。そのことを歴史文化センターが所蔵している戦後資料から見ていく。19の字があるが、それぞれ個性を持っている。それは何故なのか。字別の個性はどこから生まれてくるものなのか。 戦後資料のそのほとんどを展示し、そこから各字の個性や独自性を見出していくことを目的とした。 ここでは、19字の現在の様子、そして昭和45年の沖縄タイムスで紹介された「ふるさとの顔」(各字)から字の個性がよく見えてくる。 A貴重資料(展示ケース内) 戦後使われた村長、助役、収入役印をはじめ、様々な印。今帰仁グスクから「山北王之印」の出土してこないだろうかと期待するが、戦後の首長などの印は、100年200年経ったとき昭和、平成の首長などの印も山北王之印同様歴史的に重要な資料となるにちがいない。一筆限帳や名寄帳など。 B今帰仁村歴史文化センター 歴史文化センターの準備室が発足したのは平成元年である。その後平成7年に歴史文化センターとして開館。その足跡を、ここで確認してみる。 これまで発刊してきた「なきじん研究」、あるいは企画展や特別展などのチラシは冊子を通して、歴史文化センターが目指していく方向性をさぐる糧にする。 Cムラ・シマの人々 昭和25年頃から同36年までの11年間に撮影されたスライドや写真から子供達や集会に集まった人々を写真パネルで紹介。5、6歳だった子供が、今では50歳を過ぎ60歳の年齢を重ねている。その方々がこの60年間歩んできた足跡を確認していく作業が、企画展の目的の一つでもある。 今帰仁村出身の島袋源一郎や霜田正次、平良新助や仲宗根政善などの人物は出版物で登場させる。そして『縣史』(地方人事調査会)から200名近い方々を登場させることに。 D戦後の建物と物 戦後数年頃の村内の民家がどういうものだったのか。茅葺屋根でニ棟の建物。そしてそこには数名の子供と両親、さらに祖父祖母が同居する時代があった。その時代に使われて道具類を展示。 E今帰仁村役所 役所は戦後の復興の行政の要になった施設である。戦後いち早く村長を決め、学校の創設や配給物資、土地測量や戸籍簿などの編成。議会も開催され、残された戦後資料から役所が様々な問題解決にあたっている様子が伺える。 F戦後の生業と新聞スクラップ 戦後間もない頃、まだ電気やガスのない時代である。この頃の生業の中心は村内では農業である。戦後5代目の故松田村長が膨大な資料を残してくれた。この新聞スクラップもそうである。4期村長を務めた方である。戦後の今帰仁村を引っ張ってきた人物の一人である。 G写真資料 今回展示してある写真資料はメルビン・ハッキンス氏とクロイド氏、そして村出身の新城徳祐氏から寄贈いただいた資料である。そこから写真が生きた歴史資料であることに気づくはずである。ここでは、見る側が読み込みできる写真が資料としての価値があることを見出すことができるであろう。 H戦後の文書資料(約5000点) ・呉我山の開墾予定地の件 ・島内生産物の緊急集荷配給の件 ・役場の資材拠出の件 ・軍政府の配給の見通しや集荷配給の方法 ・生産予想の調査 ・戦後の村長、村議員選挙の件 ・田井等高等学校の修築に関する件 ・実業高等学校の敷地及び校舎に関する件 ・役場落成に関する件 ・電話架設に関する件 ・慰安演劇に関する件 ・役場落成式に関する件 ・その他 I写真資料にみる今帰仁の戦後 12年間に写真を手掛かりに今帰仁を紹介してきた。ここでは戦後の写真を介してまとめ、文章を含めて展示してある。このシリーズは「広報なきじん」で紹介し、『なきじん研究―写真に見る今帰仁―』(第11号)に収録してある。 J稲作が行われていた風景 今帰仁村で稲作が姿を消したのは昭和40年代である。稲作が消えた理由は、まず昭和36年頃大型の精糖工場が操業したこと。それと昭和38年に大旱魃があり水田は畑にした。砂糖キビの値段がつき、本土では減反にはいったこともあり、砂糖キビから稲作に戻ることなく現在に至っている。 稲作が消えたことで、旧暦で行われる祭祀と稲作の収穫までの流れが密接に関わっていた姿が見えなくなり、祭祀の衰退へとつながっている。 K公文書綴などの文書資料 公文書は年度毎に綴られている。味気ない公文書と見ていたが、それが歴史を描く史料になることを実感。100年200年先への贈り物にしたいと考えている(目録作成中)。 L塩田・運搬・道路工事など 塩田づくりは今帰仁村では昭和36年に姿を消す。塩づくりに使われた塩田跡が湧川の海岸に残っている。まだガスや電気が引かれていない時代は、炊きつけは薪である。山から薪をとり頭上に乗せて運んでいた時代があった。 M戦後の字(アザ)の小字図 各字は更に小字があり、小字は「・・・原」と記されことからハルナーと呼ばれたりする。戦争で戦前の土地台帳や名寄帳、それと図面を戦争で失ってしまった。昭和22年に図面を作成される。展示してあるのは、そのときの図面である。200枚余ある。 N行政文書類 行政文書綴りは故松田幸福村長時代に収集整理した資料である。分類整理された資料である。資料の整理・分類の重要さに気づかされる。資料目録作成中。 O戦後の学校 村内の今帰仁小学校は明治15年に創設される。今帰仁中学校は昭和23年の大井中等学校としてスタートし、同27年に今帰仁中学校と改称。平成15年に村内の中学校は統合される。北山高等学校の設立は昭和23年である。創設当初の写真や教科書を展示する。 P消え行く祭祀 稲作が消え、祭祀が衰えてゆく中、神アサギは消されることなく今につながっている。ただ茅葺屋根の神アサギは崎山に残るだけで他の字の神アサギは瓦葺きやコンクリートづくりになっている。神人は継承されず字の祭祀は区長、書記が行っている字が多い。古宇利島の祭祀も変貌しつつあるが、今でも神人達によって祭祀は守られている。 |

@水田のある風景![]() ![]() |
今帰仁村では「水田のある風景」が消えたことで、稲作を中心とした祭祀が急速に消えていく。稲作の消滅は、農業だけでなく、生活習慣の大きな変貌のきっかけとなっている。稲作の消滅の裏側にはサトウキビの生産の増があった。・・・ |
A戦後の建物の移り変わり![]() |
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| B今帰仁の19の字 (アザ:ムラ) ![]() |
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Cムラ・シマの人々![]() |
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| D戦後60年の軌跡 (文書資料展) ![]() |
戦後60年の文書は、60年の軌跡をたどる貴重な資料である。それらの文書資料は60年を辿るだけでなく、将来にどう届けるかの使命を担っている。![]() |
| E行政の中心となった役所 (役所関係文書) ![]() ![]() |
戦後の行政の要となった役所と、そこに残された資料群。一つひとつ目を通し、目録をつくる。そして資料の中身について備考欄にメモかきをいれる作業がつづく。『文書綴』が年度毎にあり、その一枚のメモ。 【戦後資料】 ・呉我山の開墾予定地の件 ・島内生産物の緊急集荷配給の件 ・役場の資材拠出の件 ・軍政府の配給の見通しや集荷配給の方法 ・生産予想の調査 ・戦後の村長、村議員選挙の件 ・田井等高等学校の修築に関する件 ・実業高等学校の敷地及び校舎に関する件 ・役場落成に関する件 ・電話架設に関する件 ・慰安演劇に関する件 ・役場落成式に関する件 ・その他 |
F村内の学校![]() |
学校が戦後どのような変遷をたどってきたのか。そして、学校が果たしてきた役割について・・・ |
G湧川の塩づくり![]() |
昭和30年代まで湧川で行われいた塩づくり。今では塩田跡が残っているにすぎないが、塩づくりを通して様々な先人達の知恵や苦労を・・・ |
H薪からガスへの時代へ![]() |
薪が使われていた時代からガスへの時代へ。それは、便利さと・・・ |
| I今帰仁の生業 (農業・漁業など) ![]() |
戦後資料の中に配給物資や売店の棚卸台帳などがあり、1950年頃の物や値段などがわかる。売店は薬局でもあるし、何でもあり。 |
| J茅葺屋根から瓦葺へ (神アサギ) |
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| K消えゆく祭祀 (海神祭、ウプユミなど) ![]() |
戦後資料の中の字の予算書をみると、御願費というのがある。線香や神酒、米などを購入する予算である。祭祀も公の予算で行っているのである。神人たちが行う祭祀が公務というのはそこからきている。また祈りを聞いていると、五穀豊穣、豊漁願い、ムラの繁栄など、個人の祈りではなく、ムラという公に向けての言葉である。 |









