

第6回山原ムラ・シマ講座―国頭村宜名真・辺戸―(石野まとめ)
平成22年12月11日(土)天気:晴れ
当日の朝目が覚めてすぐに丑が確認したこと・・・・「ヤッタ! 今日は北風が吹いてないっ!」。辺戸まで行くのに北風ピューない吹いていたら、寒くて寒くて顔が丸ごと吹き飛ばされてしまうがな~。あー、良かった良かった・・・と、ニコニコ顔で起きてきました♪
今年度最後の調査は国頭村の宜名真と辺戸です。宜名真でシーラを買い、ドライバー島隆御殿で七輪でシーラを焼きながら日本酒でキュッといっぱい・・・という野望を胸に計画されたムラ・シマ講座であったが・・・・。結果は如何に!?

▲宜名真の港と集落 ▲茅打ちバンタから南を見る
1.オランダ墓と茅打ちバンタ
宜名真集落は明治41年に辺戸から分離した字です。ほとんどが廃藩置県の前後に首里・那覇から移住してきた士族系の寄留人で、「ジナマグヮンクー(宜名真頑固者)」と呼ばれることもあるほど、気位の高い雰囲気があったそうです。畑地が少なかったことから、宜名真の寄留士族たちの主な産業は藍、糸芭蕉そして薪などでした。
茅打ちバンタに行く坂道の入口付近にオランダ墓があります。今回は、お墓の背中しか見られなかったのですが・・・・(TT)。
明治6(1873)年、イギリス商船が台風のため宜名真沖で座礁し、漂着した4人の遺体を村民が埋葬したのが、このオランダ墓です。生存者が5人おり、イギリス本国に送り返され、後にイギリスからお礼として柱時計が寄贈、戦前まで国頭村役場に残っていました。
宜名真集落を始め、周辺の人々は座礁した船の救難にあたりながら、鉄製の錨や木材、南京米、バラストなどを引き上げました。『国頭郡志』に「旧藩時代の事とて、騒動すること甚だしく、村民諸方より蟻集して米穀を引上ぐるに夙忙を極めたり」とあり、当時の様子が伺えます。
大型帆船の錨は大きいものと小さいものと二つあり、潮が干いた時に錨をサバニなどにくくり、潮が満ちたら岸に引っ張る・・・を繰り返して引き上げました。大きい錨はクワやカマなどに加工し、小さい錨は奥の港に展示されています。またバラストは運天にある源為朝の碑や大宜味村役場の隣にある忠魂碑(現慰霊塔)に利用しました・・・・人道的な人助けではあるけれど、ゲットしたものも大きかったね、宜名真周辺の皆さま(^^)V。
当時外国人はみんな「ウランダー(オランダ人)」だったので「オランダ墓」と呼ばれていますが、「オランダ墓」は県内に二基あり、一つはフランス人を葬った屋我地運天原のオランダ墓で、もう一基がここ宜名真のオランダ墓です。
茅打ちバンタは80.7メートルの高さがあり、ハンタ(突出崖)から束ねた茅を投げ込むと、上昇する風にあおられバラバラになって舞い上がったことに由来しています。「茅吹ち」がなまって、「茅打ち」バンタと呼ばれるようになったそうです。今回は風がなかったので、茅はそのまま海に落っこち、「茅落ちバンタ」と呼ばれたことでしょう(^^)。
ここから見る風景の美しさは有名で、明治14(1881)年に沖縄本島を巡回した上杉県令の一行の記録係(秋永さん)が、その絶景をたたえ、漢詩を詠んでいます。
ちょっと脱線しますが、この秋永さん、ちょっとお調子者のところがあり、取り繕ってはいるけれども、おっちょこちょいぶりが行間ににじみ出ていて、巡回日記を読みながら丑は相当秋永クンに入れ込んだことがあります。会いたかったなあ、秋永クン。
眼下に見える宜名真港には、今回のメイン・・・ではなくサブだけど、期待満々のシーラ干しが見えません。もしや・・・もしや・・・いや、そんなことはない。きっとシーラは私たちを待っていてくれるわっ!
さて茅打ちバンタから我らが今帰仁村を見ると、古宇利島は本部半島と一体化して、島ではなくなっています。また今帰仁から伊平屋や伊是名を見ると、二つの島が重なって一つにしか見えませんが、国頭からは伊平屋伊是名がちゃんと分かれて二つの島として見えます! 大きさもちゃんと分かる!! そして伊江島がちっこい!! 与論はすぐそこ!!。同じ「山原」ではあるけれど、どこに立ち、立った場所から何がどう見えるかによって、地域同士の距離感や親近感、世界を見る感覚は違っていくという当たり前のことを実感しました。

▲開さくされた「戻る道」 ▲當山正堅先生頌徳碑
今回の下調べで一番感動したのが、この「戻る道」開さくにまつわる話です。
宜名真住民のほとんどが寄留士族で、主な収益は辺戸上原の山あいに育てた藍や糸芭蕉、薪であったことは先に述べましたが、それは宜名真の人々が地割制度の対象外だったことを意味しています。つまり、百姓として割り当てられる土地がなかったということです(今帰仁の場合は渡喜仁がその例に当たります)。そのため宜名真集落の人は3年~5年契約で辺戸や宇嘉の畑の小作をしていたようです。
辺戸上原の土地は地割制度内の土地ではなく、売買することのできる仕明地だったため、明治の土地整理期前後から、この地に畑を所有する宜名真の人も出てきて、「部落民にとっては生活の基盤となる耕地の唯一の所在地」(『国頭村史』)でした。
ただこの畑に行くには茅打ちバンタの内側、岸壁の間のわずかに開いた部分を通路にするしかなく、ここを通らないで畑に行くには、辺戸を4キロ近くも迂回せねばなりませんでした。この道は人が一人しか通行することができず、道の途中で人に会えば一人は必ず後戻りしないといけなかったので、「戻る道」と呼ばれます。『沖縄風土記全集 国頭村編』に「8~90メートルの削り立った岩に僅かの裂け目ができ、そこを利用して杭を打ち、丸太棒で階段を作り、手すりを付け、杭や木の根を頼りにやっと通うことができた・・・・雨が降ると土がついて滑るので、生きた心地もしなかったという・・・製糖の時期は砂糖樽を運ぶのにも前の者が背中に樽を乗せ、後の者が樽縄を引っ張りながら降りたが、誰か足でも滑らすものなら忽ち地獄行きで、その険難さは言葉で表現する所ではなかった」と、その険しさが記されています。
1912年に若干26歳の若さで今帰仁小学校(!!)から辺戸尋常小学校校長に赴任したばかりの當山正堅氏(恩納村出身)は、宜名真の人々の「生活が困窮し、従って未就学や長期欠席児童の多いこと、そしてこれらの原因が耕作地の乏しさにあることを知った。また上原の原野を開墾すれば、広面積の耕地が得られることも知った。そこで彼は戻る道の開さくを決意した」(『国頭村史』)。
當山校長は国頭郡に工事の要請をし、郡長や技術者に無謀として退けられますが、「原の降り登い あん苦りさあむぬ、道あきてたぼり 吾御主がなし」(詠み人知らず)の歌と共に宜名真の人々と向上会を組織し、次のような決議をもって再度陳情しました。
一、部落は工事途中落語しない。
二、開さく工事の主動には向上会があたり、会員率先して工事を遂行す。
三、工事中の食糧準備として、人口一人宛三十坪以上開墾して甘藷を植え付ける。...
工事中、畑の帰り、芋三個宛を工事費用として供出する。
その結果、郡長から「自力で工事を行なう」という約束で許可を取り付けます。国頭郡にとっては、住民が自発的に事業を行なうことは好ましくなかったようですが、やむなく火薬の払下げと技術者派遣の援助はしたようです。
1913年5月より工事が始まり、毎日40~50名の部落民が出動し、難所の石積み時は首里から名工二人を日給2円(当時としては破格の賃金)で雇ったといいます。當山先生もクバ笠にワラジがけで毎日現場に姿を見せました。完成間近になって広い範囲で石積みが崩れるというアクシデントもあったようですが、ついに同年11月、工事は完成を見、「戻る道」は「戻らない道」になりました。
「戻る道」が広くなったおかげで、辺戸上原への人と牛馬の往来ができるようになり、灌漑用の水不足の悩みはあったものの、天水による田畑の耕作地が拡大、1919年には国頭村第一位の砂糖生産量を達成します。また牧場も開拓され、これも村内第一の「国頭牛(クンジャマー)」の飼育地となります。
戦後、辺戸上原の開拓が本格化され、1952(昭和27)年に北国小中学校を設立、宜名真住民移住の足がかりとなり、さらに1956(昭和31)年には辺戸ダムから用水路が敷かれ、田畑に灌水ができるようになりました。
このように宜名真の生活向上が成し遂げられたのも、若き校長當山正堅がまっすぐに宜名真の状況を見、その改善に教育者として心血を注いだからなんですね!
カッコイイじゃないか!當山正堅!!
そして、宜名真の人々自らが開さく工事を行ない、全員がイモの生産に励み、少ない中からそのイモを供出して部落民総出で自分たちの生活の改善に取り組んだことも、今の時代から見ると、羨ましいような気がします。
茅打ちバンタの側に立つ「當山正堅先生頌徳碑」には次のように記されています。
故當山正堅先生頌徳の記
ここは戻る道と云ふ・・・(略)・・・このように通行困難なため(略)宜名真住民の生活は困窮を極め、年々不就学児童がふえてゆく状態であった。
(略)當山先生は、その窮状を黙視できず、戻る道を切り開くことの急務を再三要路人々に訴へたが無謀だと退けられた。先生はそれに屈せず、自ら陣頭に立ち村民を励まし、あらゆる困難を克服して(略)住民福祉の大事業がなしとげられたのである。
今や戻る道も公道として改修され(略)、荒蕪地であった辺戸上原は豊かな稔る沃野と化している。その基を築いた當山先生の偉業を頌へ、「沖縄のデンマークを築け!」と絶叫された教へを永く記念するため、この碑を建てるものである。
1958年8月吉日 辺戸宜名真区民一同 辺戸上原土地改良組合
「沖縄のデンマーク」!? なにゆえデンマークなの!? 丑にとってデンマークと言えばアンデルセン(丑は幼少時大変お世話になりました)と、玩具のレゴ(息子が幼少時大変お世話になりました)と、チューリップポーク(家族全員今でも大変お世話になっています)、ロイヤルコペンハーゲンやヴァイキング(どっちもまだお世話になったことはありません)なんですが・・・。
で、不勉強を補うためにデンマークを調べましたところ、デンマークは教育や福祉にとても力を入れているお国なんですね。當山先生はそのことを踏まえ、宜名真を沖縄のデンマークに!とおっしゃったのでしょうか。
「戻らない道」の完成後、當山先生は「戻る道あきて ゆがふ世に向かて、御栄ゆみそり 子孫までん」という歌を詠んでいます。
ん~・・・惚れちまったぜ、當山正堅!・・・・(*^。^*)

▲義本王の墓 ▲ヒチャラ御嶽のイビヌメーの石灯籠
さてさて、次に向かうは義本王(1206?~?)の墓です。
『中山世鑑』によると源為朝の子と称される舜天の子が舜馬順煕(しゅんばじゅんき)で、義本はその息子と言われています。為朝のひ孫です(やしゃごという説もある)。
1249年に舜天の跡を継いで即位しましたが、即位の翌年から国中に飢饉や疫病がはやり人民の半数が死んでしまいます。群臣の勧めで英祖なる人物に国政をまかせたところ災いが治まり、自分の不徳による災難であったと知った義本は、在位11年目に王統を英祖に譲り、舜天王統は三代で断絶してしまいます。ここから英祖王統が始まるわけです。
義本のその後の消息は不明ですが、義本の墓だと伝えられるものは国頭村にはここ辺戸の墓をはじめ、伊地と佐手にあり、また北中城村の仲順(ちゅんじゅん)にも存在しています。王統が変わり、世をしのぶ身となったために、遁れ先を隠す目的でいくつかのお墓をつくったものだとも考えられています。エライ人物が出たときに、その人の足跡をたどりながら拝んでいく慣習と(例えば尚円王にちなむ拝所の数々)、悲劇的存在となった王を追惜する念からの造墓とも考えられます。
辺戸の義本王の墓は明治になって尚家が改修させたものだそうで、辺戸玉陵(たまうどぅん)と称されています。そのとき尚家から送られてきた方約1.5メートルの大陶棺を納めたと言われています。現在管理しているのは辺戸の佐久真家で、義本王は同家に住んでいたとも伝えられています。佐久真家は金丸、後の尚円が身を寄せた家だとの伝えもある辺戸の旧家です。
この墓は琉球建築の石工技術を生かした建造物で、周りの石垣は珊瑚石灰岩、仏教建築の影響を受けており、1984年に国頭村の建造物文化財に指定されています。珊瑚の石と他の石を組み合わせ強度を持たせた石垣、階段からヒンプンのたたずまいや、石屋根を持つ墓そのものが美しかったです。
次は辺戸ムラのウタキであるヒチャラ(シチャラ)御嶽に入っていきます。
写真はヒチャラ御嶽のイビヌメー(イビの前)です。
ここにはイビヌメーの香炉の他に国頭王子の石灯籠が二基置かれています・・・上下が分かれていますが・・・。この石灯籠は、石の種類が沖縄の石ではないことから、県外で作られた灯籠であると思われます。恐らく国頭王子が薩州(または江戸)に赴き持ち帰って、無事の帰国を感謝して寄進したものでしょう。本来この石灯籠は、たとえば今帰仁按司の石灯籠が今帰仁グスクにあるように、国レベルのウタキに置かれる類のもので、国頭であるなら根謝銘グスクに置かれるべき石灯籠です。一ムラのウタキであるヒチャラ御嶽のイビヌメーに置かれるものではありません。では何故、按司クラスの石灯籠がここに寄進されたのでしょう?
答え:根謝銘グスクが国頭でなくなったから~。
根謝銘グスクは、最初国頭間切内にありました。けれど大宜味間切(最初は田港間切といいました)が新設されたことにより、間切の境界線が変更になって、根謝銘グスクは大宜味間切内のグスクになったんですね。そのため国頭按司の石灯籠の持って行き場がなくなっちゃったんですよ~。それで辺戸ムラのウタキであるヒチャラ御嶽に石灯籠を設置する運びとなったわけです。
国頭間切の奥、辺戸、比地には大きな碑があり、その年号を見ると国頭按司の薩州訪問の年号と重なります。このような石碑で現存する最も古い年号のものが今帰仁グスクの「山北今帰仁城監守来歴碑記」(1749年)で、どうもこの頃に作られたものが「石碑(石灯籠など)作って寄進しちゃおっと♪」の流行の始まりである可能性があります。十世宣謨は石碑界のファッションリーダーだったのか!? 大和旅の無事を願って香炉を寄進し、無事に帰ると、王府から「大和めきもの」への禁止があったにも関わらず、按司クラスのメンバーであれば石灯籠を寄進する・・・。大和旅ができるエリートの威信を形にしたものだったのでしょうね。

▲コゲラの穴倉? ▲どんぐりコロコロ
ヒチャラ御嶽のイビヌメーの手前(イビヌメーヌメー?)で島隆課長が発見したもの二つ。上を見上げりゃコゲラ(?)の巣。下を見やればシイの実コロコロ。
穴倉は高い木の幹にありました。何の鳥でしょうかね~。高所恐怖症の私には絶対に住めないところですね~。それにしても、よく見つけました! 課長、スゴイっ!
(自然担当の豊口さんにお聞きしたらば、開口部が5センチ以上あればノグチゲラの可能性アリとか!! ノグチゲラがお引越ししたらフクロウ類がこの中古物件に入居し、フクロウが新居に移ったらケナガネズミ類が利用し・・・と入居者には事欠かない高層マンションなのでした♪ 現在の住人はさて、どなたでしょう?)
どんぐりはたくさん落ちていて、某課長はこれを手のひらにたくさん集めて武器にして、後ろを歩く丑にピシッ!ピシッ!と飛ばしてくるのですよ・・・・。それがまたすごく上手に飛ばすんですよね~。「イテ~な~、やめてヨっ」と必死の攻防を繰り広げつつ、次のポイントに移動しました。

▲ヒチャラ御嶽のイベ ▲アフリ川(大川)
ヒチャラ御嶽のイビヌメーからさらに歩き、階段を上っていくと、御嶽の中で最も聖なる場所であるイビに到達します。イベを囲む木の骨組みにくくられている縄は、この建物(?)が吹き飛ばされないように縛っている縄ではなく、聖域を示すヒジャイナー(左向きになった縄)です。
ここで御嶽について、簡単におさらいしましょーね。
血族単位で集落ができると、その集団は居住地の近くの高い所に御嶽を作ります。御嶽はかつて住んでいた場所(今帰仁村の仲宗根や謝名や平敷や兼次などなど)だったり、集落の側の山(今帰仁村の天底や名護の振慶名だったり恩納村の山田などなど)だったりするわけですが、この山全体を御嶽といいます。
この御嶽の中にイビ(イベ)があり、御嶽の中の最も聖なる場所と言われます。そのためにヒジャイナー(左縄)で囲い、穢れから守っています。御嶽の中にいくつもイビがある場合があり、それはその集落を形成する血族集団のイビと言えます。根謝銘グスクにも名護グスクにもイビが複数あり、かつてグスク内に住んでいた集団ごとのイビでしたよね。
イビの手前にイビヌメー(イベの前)があり、ムラの人達が入れるのはここまで。これより先は神人しか入ることができません。玉城のスムチナ御嶽でいえばウカマと言われる場所でイビヌメーの香炉があり、クボの御嶽は名前はついていませんが、やはりイビヌメーの香炉があります。どちらも祭祀の時、ムラの人達が待機する広場です。ヒチャラ御嶽は石灯籠があるところがイビヌメーでしたね。
御嶽=イビとよく誤解されますが、御嶽は聖地である山全体をさし、イビはその中にある最も聖なる場所です。イビは女性の陰部から来ている語との考えがあります。だから血族集団ごとのイビがあり、一族から出された神人が「自分たち一族が出てきたところ」としてイビを拝む・・・亀甲墓が女性の子宮を型どり、死んだら再び生まれたところへと帰っていく、という感覚と同じです。だから中南部や名護グスクなどに見られるように祖先の骨をイビに埋める習性が見られるというのも、そういった感覚からすれば納得できることなんですね。
ヒチャラ御嶽の次に行ったのはアフリ川(大川:ウッカー)で、アフリ御嶽の麓にあります。ここで首里王府によるお水取りの儀式(辺戸之御水且吉方(かつえほう)御水献上)が行なわれます。首里王府からはお水取りに毎年5月と12月にやってきますが、12月に行なわれるものは12月20日、時之大屋子を辺戸に遣わし、辺戸ノロさんが祈願したお水を汲んで持ち帰り、それを元日に首里周辺の吉方にあたる二ヶ所の泉の水を添えて、国王に献上します。国王はこの水を神に供えて、自らもお水撫でをします。
辺戸でのお水取りの順序は、辺戸の神アサギで行事開始の御願→アフリ川でお水取り→ヒチャラ御嶽のイビヌメー→辺戸のヌンドゥルチの火神→首里で、王家の繁栄(国王一家及び聞得大君の長寿)、五穀豊穣、航海安全などに果報のあるようにとの祈願がなされます。
首里から時之大屋子(ときのうふやく)の派遣がなくなってからは、辺戸の佐久真家(義本王の墓の管理をしている一門)が後を引き継ぎ、大川の管理などを行なっています。ちょうど私たちがアフリ川を訪れたときにはきれいに草刈りがなされていて、今年のお水取りが間もなくなんだな~と分かりました(辺戸の売店に「お水取りは12月19日」との案内のチラシが貼ってありました)。
このお水取りの行事は、もともと今帰仁アオリヤエの管轄だったと思われます。『由来記』には時之大屋子一人を寄越して、辺戸のノロの祈りがあり・・・と記されていますが、お水取りは国家の安泰を願う国レベルの祭祀なので、辺戸のノロが補助的に参加することはあっても、主体となる祭祀ではありません。ではなぜアオリヤエはこの行事に参加していないのでしょう?
答え:今帰仁アオリヤエがいないから~。
ではここで今帰仁グスクの歴史の復習コーナーです♪
1609年に薩摩が琉球に侵攻し、今帰仁グスクは焼き討ちにあいます。今帰仁監守5世克祉の時です(克祉は家譜によると、この翌日に死亡していることから、自害した可能性があります)。そして数年後、今帰仁グスク周辺にあった今帰仁ムラと志慶真ムラが城下に移動、監守一族も城下に移動します。
この頃すでに監視し統治するという「監守」の役割は形骸化していますが、それでも王府が「監守」を置き続けたのは、山原における国家レベルの祭祀、例えば遠来神である君真物(きんまむん)=君手摺(きみてずり)が出現し、冷傘(リャンサン、アフリ)が立つのを迎える儀式であったり、5月と12月のお水取りの儀式(アフリ嶽のふもとのアフリ川で行なわれる)などですが、国家の安泰に関わる重要な祭祀を今帰仁阿応理屋恵(アフリヤエ)が担っていたからだと思われます(監守の妻や娘が阿応理屋恵職に就いています)。
しかし監守の形骸化はさらに進み、1665年に監守一族は(もちろんアオリヤエも一緒に)首里に引き揚げます。そしてついに今帰仁アオリヤエ職は廃止となり、お水取りの儀式には首里からは時之大屋子のみが参加し、辺戸ノロがアオリヤエの祭祀を管轄するようになります・・・ちょうどアオリヤエ引き上げ後、国家のウタキであるクボの御嶽での祭祀が今帰仁ノロへとスライドしたように。
というワケで、『由来記』が編纂された1713年には既に監守一族が首里に引き揚げ、アオリヤエ職も廃止になった後だったので、アオリヤエの名称が出てこないんですね~。
今帰仁アオリヤエはその後ずっと廃止になったかというとそうではなく、『球陽』の1769年の記事に「今帰仁間切の阿応理屋恵按司の職を継続す」とあることから、1750年前後に復活したと思われます。この頃、監守は十世宣謨の時代で、宣謨は1747年に王子の位を賜り、1749年に「山北今帰仁城監守来歴碑記」を建立、1761年には監守一族の墓である運天の大北墓を王府に拝領墓として願い出て許可されるなど、積極的に今帰仁監守の地位引き上げに動いた人物です。こういった宣謨の動きと、アオリヤエ職の復活はつながっているだろうと思われますが、家譜資料には今帰仁阿応理屋恵職を確認することができないため、どういった形で復活し継承されていったのか、よく分かっていません。

▲白く可憐な花を見つけました ▲これぞアタイグヮー!
難しい話で頭が重くなってきましたので、アフリガーで見つけた可愛いお花をご覧くださいませ。写真を撮りながら「これ、何て花なのかな~」と言ったら「水の側に咲いているからミズランじゃない?」と言った某課長アリ。
右はアフリガーへ降りていく道の側の小さな畑です。1m50㎝四方ほどの区画に色んな種類の野菜が植えられていて、見ているだけでワクワク楽しくなってきます。いいなあ、こんな畑、好きだなあ、畝立てしなくていいし・・・。野菜がとても素直で美味しそうでした。

▲辺戸の根神屋(左)とヌンドゥルチ ▲辺戸の神アサギ
左にあるのが根神屋で、右側がヌンドゥルチです。『由来記』に辺戸巫火神として記載されています。
国頭間切には奥間ノロ・屋嘉比ノロ・辺土名ノロ・与那ノロ・辺戸ノロ・奥ノロ・安波ノロの7名のノロがいます。辺戸ノロの管轄は辺戸村のみで、祭祀場所はシチャラ御嶽、アフリ嶽、宜野久瀬嶽、アフリ川となっています。毎年5月と12月のお水取りの儀式や、正月と9月の宜野久瀬嶽での御願の際は、辺戸ノロが祈願の中心を担います。またお水取りで汲んだ水は辺戸の佐久真家が運搬していたことは先に述べましたが、このようにアオリヤエ職廃止後の王府の祭祀を辺戸ノロや佐久真家が継承していったのです。
根神屋やヌンドゥルチは辺戸区で出資して作り替えしていますが、これは一個人の拝所というより、ムラの共同の場所であるという認識からだと思われます。
ヌンドゥルチから少し行ったところに辺戸の神アサギがあります。神アサギの前にはアサギナー(アサギ庭)の広場があり、ここにはかつて村屋(ムラヤー:今の公民館)があったそうです。今はこの周辺にあまり住宅はありませんが、かつてはムラの中心地だったのですね。辺戸の神アサギは、ヒチャラ御嶽を背にして香炉が置かれています。
さて神アサギには御嶽に向かっている神アサギと御嶽を背にしている神アサギとがあります。今帰仁の例で言うと、御嶽に向かっている神アサギに兼次・謝名・仲宗根・湧川などがあります。御嶽を背にして海に向かっている神アサギには今泊・与那嶺・諸志などがあります。
神人のお仕事はムラの代表として五穀豊穣・航海安全・ムラの繁栄を祈願することですが、御嶽に降りてきた神を迎え、一体となり、ムラの人々と神を出会わせる役目もあります。
御嶽に向かっている神アサギの場合、御願を行なう神人が「これから神をお迎えする」、つまり神アサギで御願を行なう時点ではまだ神が神人に降臨していない状態で、御嶽を背にして集落の方向を向いている神アサギの場合は、神人が既に神と一体になり、あるいは神の威厳を背負いつつ、ムラに対して祈願成就の約束を含んだ三つの御願を行なっていると思われます。
御嶽を背にしている場合、もう一つの考え方として、海の方向を向いている可能性もあります。天→御嶽という垂直に下りてくるムラの神と、北の水平線からやってくる人類発祥に関わる神観念があり、二つの神観念が混ざり合っている可能性もあります。辺戸の場合、辺戸ノロがアオリヤエ職を担うことになったため、辺戸の神アサギでお水取り開始の御願がなされ、その時はヒチャラ御嶽に向かって御願します。『由来記』には「シチャラ嶽・アフリ川・辺戸ノロ火神」の三ケ所での御願が記載されていることから、神アサギでの御願は挨拶程度のものと考えて良さそうです。
本来神アサギでの御願はムラの行事であり、国家レベルの祭祀とは別のものなので、御嶽を背にしている神アサギを見たら、「神人が既に神と一体になっている」という基本で見た方が分かりやすいと思います。
神アサギや御嶽がどこを向いているか、よく議論を呼ぶテーマですが、分かりやすく「仏壇に手を合わせるとき、どこを向いて拝むか?」に重ね合わせて考えてみましょう。
仏壇に手を合わせるとき、トートーメーのご先祖様に向かって手を合わせます。その時、北の方向であるとか、アマミキヨに向かってなどと考えていませんよね。トートーメーのご先祖様、あるいはトートーメーの向うにいるご先祖様に向かって手を合わせています。このとき、ご先祖様と子孫である私たちは別々の存在です。
ところで仏壇を背にしてトバシリ(戸走り)に向かって手を合わせることがあります。これはご先祖様がいる世界に向かってのウトゥーシですが、この時御願している人は、仏壇を背にすることで、トートーメーからお迎えしたご先祖様を自分の背に担い、そこからウトゥーシの方向に向けて送り出す、という感覚があります。お盆のお迎えと送りに似ていますが、トバシリでの御願はもっと一体感があります。
神アサギが御嶽を向いている場合と御嶽を背にしている場合の違いは、トートーメーを向いて手を合わせるときと、トートーメーを背にしてトバシリでウトゥーシするときの違いとよく似ているように思えます(・・・・って、思えないですか? ん~、思えない人はカンチョーに聞いてみてね・・・・丑もまだちょっと分からない感覚なんです・・・・トバシリのウートートをしたことがないものですから)。

▲シニグモーと松並木 ▲旧辺戸区事務所
辺戸は海神祭(ウンジャミ)とシニグを交互に行なうムラです。『由来記』の編集以前に琉球の祭祀が整理統合された時期がありましたが、今まで続けてきた行事をなくすことはできないということで、二つの行事を交互に行なうようになったようです。シヌグと海神祭を交互に行なうのは国頭間切では辺戸村・奥村・安田村・安波村の四カ村で、旧盆明けの最初の亥の日に行なわれます(旧盆明けの最初の亥の日というのは、古宇利の海神祭と一緒ですね)。
辺戸のシヌグは、神アサギの奥の小道をしばらく行ったシヌグモーで行なわれます。シヌグモーは集落の上の方にある小高い場所で、蔡温松と呼ばれる松並木が残り、ホッとする空間です。
1967年の記録を見ると、シヌグは二日間行なわれており、どちらもシル神(男神)が采配しています。一日目はムラの男女がシヌグモーに集り、各戸から一分づつ出し合った米でミキを作り、部落の無事発展を祈願した後、ミキを飲んで、その後女性だけで円陣になってウスデークをしたそうです。それから男性が三味線でカリーをつけ、ムカデ旗などを立ててアサギナーに移動し、再びウスデークをするなど寄る遅くまで賑わったそうです。次の日はシヌグ遊びといって、アサギナーに男女が集まり、ウスデークの後、余興になったそうです。
シヌグは山の幸を祈願する行事ですが、以上のようにあしび(遊び)の要素を濃く持った行事で、そのために王府が「休息が多すぎる」と減らすよう指導が入り、豊漁や航海安全を祈願する海神祭と交互に行なわれるようになったのでしょう。
古宇利の海神祭を見ると、山の幸や畑の豊作を祈願する動作が含まれており(イノシシを射る動作や、穀物を図る動作など)、それからすると古宇利の場合は山の行事と海の行事を辺戸のように交互にするのではなく、一本化したのではないかと考えられます。
二つの行事を交互に行なう地域性と、一本化していく地域性と、その違いはどこから来るのでしょう・・・・。
写真右は辺戸区事務所と辺戸共同売店が一体化した建物です! シヌグと海神祭は一体化できなかったけど、公民館と共同売店は一体化の道を進んだ辺戸だった!面白いですね~。公民館で会合があるとき、すぐに隣にサシミから冷えたビールからヌーからキーから買いに行けますね~。便利だな~。

▲宜名真御殿 ▲宜名真公民館と宜名真共同店
この鳥居は宜名真御殿の入口です。宜名真御殿は伊平屋から逃れてきた金丸(尚円)が数年間住んでいたところと言われています。『由来記』によると1781年に茅葺から瓦葺に改修され、辺戸の佐久真家が管理することになったそうです。
中に入ると、ありとあらゆる仏像や七福神などの図像や沢山の香炉の他、国頭間切根・北山根軸、中頭間切・中山軸、島尻間切・南山軸という香炉や、裏庭には地頭火ヌ神もあり、ここで拝めば全部の御願ができちゃう、スグレモノの拝所なのでありました。
宜名真御殿の隣に宜名真の公民館と宜名真共同店が、辺戸のように一つの建物の中に収まっています・・・・宜名真の港で「シイラはもうないよー。品不足でねー」と言われ、全身の力が抜けた島隆課長と丑・・・。みんなが宜名真御殿を見ている間、丑は共同店にダッシュし「すいませんっ!シイラありますかっっっ!!」と聞いたけれど、「ないさ~」の一言で沈没してしまったのでありました・・・・。あーーー、シイラを七輪で焼いて冷やでキュッと一杯・・・の夢がぁ~~~(T_T)。涙・涙の宜名真港であった・・・。

▲お昼ごはんでーす ▲・・・・・・・・・・・・・・・・
涙にむせぶ宜名真売店でしたが、国頭の道の駅ゆいゆいで、おいしいかまぼこ2種類とアグー入りジューシーおにぎりを食べました。菜美路さんに教えてもらってゲットした国頭ドーナツも美味しかったですよ!
ちなみに右の写真はムラシマ講座当日の館長の朝ごはんです~。やはり国頭村まで遠出するからなのでしょう、通常サイズではなく「おっきいね!あんぱん」を召しあがっておられました。不測の事態に備えてのこの素晴らしいご判断っ! さすが館長!
というところで、今回の報告を終わります。みなさん、よいお年をお過ごしくださいね。
第18期 山原のムラ・シマ講座(第5回 11月13日)(お知らせ)
第5回目の「山原のムラ・シマ講座」は恩納村山田です。恩納村山田は1673年以前は読谷山間切の村の一でした。旧集落の後方に山田グスクがあり、座喜味グスクと中城グスクを築いた護佐丸と関わるグスクがあります。今回は山田グスクと山田(読谷山)村との関わりを見ていきます。これまで見てきた山原のグスクと集落との関係とは異なった形態をしめしています。中南部の集落とグスクとの関係を見ていきます。
山田村のウタキのイベが山田グスク内にないのが特徴かと思われます。そのことを現場で確認します。また山田と統合された?蔵(倉)波(クラハ)は興味深い場所です。クラハは山田にクラハ原があり、そこに倉波大主の墓があります。一帯を流れるカーは地下(岩の下)を通っています。与論島や沖永良部島では、地下を流れるカーをクラゴーと呼んでいます。すると山田の倉波(クラハ)は暗いカーに因んだ呼称と見ることができます。クラゴー(暗い川)と倉波(クラハ:暗いカー)と共通した地名では?それも確認してみましょう。
また、山原の村とと恩納村山田村と共通するもの、あるいは違いを発見みましょう!
11月13日(土)
9:00 今帰仁村歴史文化センターに集合
出席の確認/レジュメの説明
↓ 9:30 恩納村山田へ出発(マイクロバス)
↓ 10:30 山田旧集落に到着
↓ ①山田旧集落跡(歴史の道)
↓ ②佐護丸の父祖の墓

▲恩納のムラ・シマの移り変わり「あの頃のうんな」(恩納村博物館発行より)


▲山田集落の移り変わり:恩納村博物館発行より
▲メーガー(碇石あり) ▲地下を流れるカー

▲神アサギ跡と火神の祠 ▲山田グスクの遠景
第18期 山原のムラ・シマ講座(第4回 9月11日)(お知らせ)
第4回目の「山原のムラ・シマ講座」は金武町金武(金武・並里)です。「金武間切の主村」として金武村が登場してきます。そこにはもう一つ並里がでてきます。並里は行政村としては登場してきませんが、行政村同様な姿と出てきます。それらのことを解き明かすことは困難ですが、挑戦してみたいと思います(講座の日までに解けるかどうか!)。まずは素直に金武・並里を歩いてみましょう。
9月11日(土)(巡見地の予定)
9:00 今帰仁村歴史文化センターに集合
出席の確認/レジュメの説明
↓ 9:40 金武町へ出発(マイクロバス)
↓ 10:30 (穴川公園::バス駐車)
↓ ・トゥムスズ御嶽
↓ ・金武ノロドゥンチ跡
↓ ・金武グスク門の石・神サギ跡?
↓ ・上ヌモー(金武グスク跡?)
↓ (バスで移動)
↓ ・ウガミ(ウガン:香炉約20基あり)
↓ ・ナーカムイ(香炉約10基あり)
↓ (バスで移動)
↓ ・キムタガー(慶武田川)
↓ ・並里のウタキのイベ?
↓ (バスで移動)
↓ ・ウッカー(大川)
12:30 歴史文化センター着(予定)

▲トゥムスズの御嶽 ▲金武ノロドゥンチ

▲ウガミ(香炉が20余あり) ▲ナーカムイ(御嶽原:香炉約10基あり)

▲キムタガー(慶武田川) ▲キムタガー後方にあるウタキのイベ?

▲ヌンドゥルチガー(移動)と御殿屋敷跡 ▲ウッカー(大川)
※金武町金武は祭祀空間からみると少なくとも二つの集落から成り立っている。金武地域と並里地域。並里は行政村とし ての条件を備えているが行政村になることはなかった。それが何故だったかが今回のテーマ。
※「間切村名尽(附宮殿官衛名 全)に登場する村は、金武村・古知屋村・宜野座村・惣慶村・漢那村・
伊芸村・屋嘉村とある。もう一つの「間切村名尽く 全」では「落丁 祖慶村・宜野座村・古知屋村・並
里村」と並里村が行政村として登場。二つの資料は他地域から見て、「間切村名尽(附宮殿官衛名 全)
は『琉球国由来記』(1713年)~1737年の行政村を示している。後者の「間切村名尽 全」は1738年以
降の行政村を示している。名護間切の名護村から東江村・城村・大兼久村がそうである。今帰仁間
切の1738年に創設された湧川村は前者には出ず、後者に出てくる。それと恩納間切恩納村に二人
の掟を置いているが、そこは行政村になることはなかった。「間切村名尽」の二つの資料を比較してみ
ると、1713年~1737年にかけて地頭代の領地替えと行政村の立ち上げがなされている。
今帰仁間切は湧川大屋子から古宇利親雲上
恩納間切は谷茶大屋子から大兼久親雲上
羽地間切は嵩川大屋子から川上親雲上

| 金武間切村 | ノロクモイ員数 | ノロクモイ |
| 伊芸村 | 壱 人 | 本ノロクモイ壱人 |
| 金武村 | 壱 人 | 本ノロクモイ壱人 |
| 漢那村 | 壱 人 | 本ノロクモイ壱人 |
| 宜野座村 | 壱 人 | 本ノロクモイ壱人 |
| 金武間切村 | 各村拝神所 | 拝 所 |
| 屋嘉村 | 四ヶ所内 | ・字東り御嶽一ヶ所 ・西御嶽一ヶ所 ・神アシアゲ一ヶ所 ・根火ノ神所一ヶ所 |
| 伊芸村 | 四ヶ所内 | ・字後ノ御嶽一ヶ所 ・前ノ御嶽一ヶ所 ・神アシアゲ一ヶ所・ノロクモイ火神所一ヶ所 |
| 金武村 | 七ヶ所内 | ・字御嶽一ヶ所 ・留辻御嶽一ヶ所 ・神アシアゲ三ヶ所? ・ノロクモイ火神一ヶ所 ・観音寺一ヶ所 |
| 漢那村 | 三ヶ所内 | ・字前ノ御嶽一ヶ所 ・神アシアゲ一ヶ所 ・ノロクモイ火神所一ヶ所 |
| 惣慶村 | 五ヶ所内 | ・字大御嶽 ・川田御嶽一ヶ所 ・金城御嶽一ヶ所 ・神アシアゲ一ヶ所 ・根火神所一ヶ所 |
| 古知屋村 | 五ヶ所内 | ・字前ノ御嶽一ヶ所 ・後ノ御嶽一ヶ所 ・トス御嶽一ヶ所 ・神アシヤギ一ヶ所 ・根火ノ神所一ヶ所 |



・いよいよ8月のムラ・シマ講座の始まりでーす。まず画像を使って今回のレクチャーです。
・最前列は勉強熱心な金武の三人娘さん♪。今回は18名の参加がありました。
【名護グスクから見た風景】

・バスを停めた駐車場から見た大兼久、東江、城の三ムラ。
【フスミ屋】

・プスミヤーの祠。旧家の一つです。
・名幸祀からプスミヤー(フスミ屋)へ上る坂道。
【首里殿内跡】

・首里殿内跡。小さくて可愛いです。首里から来た按司地頭や惣地頭を泊めた屋敷と思
われます。『琉球国由来記』の中に、ウンジャミの時に両地頭が参加した記述を見ることができます。
【階段~ウチガミヤー】

・太もも筋力アップの階段! 長浜タロウ君は一気に駆け上っていきました。
・階段の途中にあるウチガミヤーの祠。内神という神役を出すおうちです。
【階段途中の神道】

・さらに上っていく途中に、昔の神道(カミミチ)があります。ここから上は禁域になります。
・階段左側に見る神道。
・階段右手に見る神道。
【神アサギ】

・太もものプルプルがキツクなった頃、やっと到着(^^;)。ここはグスク内の神アサギなり。
周辺はアサギナーの空間が広がり、タモトギは切った丸太(コンクリート製ですが)を立てて、
イスのようにしています。ナングスクの神様は足が長かったのかも・・・・。
・移動後の各ムラには神アサギがなく、それはもともと名護ムラという一つのムラの中の集団
だったことの痕跡です。グスクから集落移動した神人たちは、ノロを中心にこのアサギに一同
に会して、元ムラである名護ムラの祭祀を行います。グスク全体の祭祀、公的な祭祀と言えます。
その後各ムラの門中に分かれて祭祀を行いますが、それがグスク内の拝所に相当します。血族を
中心とした祭祀です。さらに移動後のムラに戻り、現在の地での祭祀が行われます。
【窪畑門中のイベ】

・窪畑(クボアタイ)門中のイベです。グスク内に幾つかの血族集団が暮らしていた頃、窪畑一族
がイベとした場所でした。集落のまとまりが行政ムラになり、一門中のイベだったものが、名護ムラ
全体のウタキのイベという扱いになります。『琉球国由来記』の名護ムラのウタキとして登場する
テンツギの御嶽がここです。「窪畑門中以外の人は拝まないで」という要旨の看板は、だからもと
もとのイベの帰属を考えると窪畑門中のイベではあるけれど、その後名護ムラのイベに昇格(?)
したので、拝んではいけないということはありませんよ~♪でも、ゴミは散らかさないでね、ウガン
通りませんよ、と館長の説明でした。
・窪畑門中のイベの左側で、何故か土を掘った後、地面に顔をスリスリする長浜タロウ君。もしや
旧家の骨かなんかが・・・・!?
【グスク内にある墓~堀切への後姿】

・グスク内にある墓です。今泊のアカン墓に似ています。グスクの機能が終焉した後、このように
「ご先祖さまの骨」をグスク内に祀るのは中南部によく見られる風習です。ちなみに今帰仁グスク
にもたま~にお骨が持ち込まれ、拝まれたりしていましたが、そのお骨はすべて村の無縁墓に
丁寧に合祀されておりまする。合掌・礼拝。
・希望者のみなさんが危険も顧みず(?)ナングスクの堀切を見学に行きました。筆者は墓の前で
ヤーバンしてました。誰も落ちないで良かったです。
【フバヌヒチャ】

・フバヌヒチャ(クバの下)のイベです。今はアコウの木の下ですが。
ここは城ノロ(東江ノロ)一族のイベで、ヒジャイナーの下に香炉があります。
・アコウの木の左側にある四角いコンクリートの祠はお墓です。
【名護神社】

・名護神社です。ノロ家と、ノロ家のイベに挟まれるように作られています。この神社を作ったときに
旧家の拝所も合祀の予定でしたが、ノロ家の火ヌ神だけがここに移され、他の旧家のものは合祀
されることなく、元のままの場所で拝まれています。
・ちょうど祠の前でウガンが行われていました。私も後ろでこっそりウガンしましたが、通らず、今帰仁
中学校野球部は試合に負けてしまいました・・・・(ぐすん)。他人の御馳走でウートートしちゃダメで
すね。
【ノロ家】

・ノロ家です。中を覗いてみると火ヌ神がありません。神社に移されたのですね。
【根神ヤー】

・ノロ家を出てニガミヤー(根神屋)に移動します。
・ニガミヤーの庭。空間的にかつて神アサギがあってもおかしくないたたずまいです。
集落の交差点のような場所だったのでしょうか?

・ガミヤーのカーの香炉の水を美味しそうに飲んだあと、リラックスしている長浜タロウ君。
・ニガミヤーです。根神は各ムラの祭祀の要になり、神人たちを統括する神人です。
【白い煙・黒い煙~粟国島が見えるかな】

・「白い煙・黒い煙」の碑の前で、館長のケムに巻かれる参加者の方々。
・天気のいい日は粟国島が見えます。粟国には「今帰仁拝み」が残っています。
かつて粟国島に農作物を荒らす魔物が出たとき、中山に助けを求めたけれど断
られ、それならと北山にお願いしたら快く引き受けて魔物を退治したそうです。
以来粟国では北山に感謝の祈りを捧げる「今帰仁拝み」が伝えられたそうな。
めでたし、めでたし。
















羽地按司御初入(1870年9月3日~26日)(『地方役人関連資料』名護市史資料編5)
・1870年9月
赤平仲尾親雲上(9~19歳まで御殿奉公)。檀那様が羽地間切にやってくる。
・9月3日 羽地按司をお迎えてのために9月3日に出発。
・9月6日 羽地按司出発日に首里に到着。
台風のため出発を延期する。
・9月8日 首里を出発する。読谷山間切宇座村で一泊する。
・9月9日 恩納間切番所で一泊する。
・9月10日 名護間切番所で一泊する。
・9月11日 羽地間切番所に到着し真喜屋村で宿泊する。
・9月13日 按司一行は親川村にある御殿火神、親川城、勢頭神御河、御殿御川
仲尾村のろ火神、真喜屋のろ火神と御嶽で御立願
・9月14日 按司一行は屋我地島へ渡って我部村のろ火神と御嶽、饒平名のろ火神、いりの寺、東の寺で御立願
(お昼の休憩所は饒平名村我部祖河大屋子の家でとる。済井出村と屋我村を巡検し真喜屋の宿舎に帰る)
・9月15日 羽地間切主催の歓迎の宴が行われた。
・9月16日 羽地按司からのお返しの御馳走の招待。
真喜屋村の宿舎へ赤平仲尾親雲上が参上した。
(招待者:間切役人(サバクリ・惣耕作当・惣山当・文子・御殿奉公した者・各村から下知人など)
神人14人、勘定主取・80歳以上の老人達)
・9月17日以降
羽地按司一行は羽地間切の以下の家に招かれる(以下の6家)。
仲尾次村の下の松田仁屋(仲尾次ウェーキ)、上の仲尾親雲上
伊差川村の古我知大屋子(伊差川古我地屋)
川上村の現真喜屋掟(新島ウェーキ)
源河村の現呉我村(源河ウェーキ)
我部祖河村のこしの宮城仁屋(我部祖河ウェーキ)
・9月26日 羽地按司一行は帰途につく。
赤平仲尾親雲上達は羽地大川の中流のタガラまで見送る。

開催のお知らせ(参加者へお知らせ文書は送付済)(終了)
第1回目の「山原のムラ・シマ講座」のテーマは「根謝銘(ウイ)グスクと周辺のムラ」です。場所は大宜味村謝名城・田嘉里です。現在の謝名城に根謝銘(ウイ)グスクがあり、国頭地方(後の国頭間切域)の要となったグスク跡があります。このグスクは周辺の村(ムラ)の祭祀とが密接に関わっています。根謝銘(ウイ)グスク内に二つのウタき(イビ)があり、村の人々の祭祀場となっています。それはムラとウタキ(イビ)とはどんな関わりがあるのか。また根謝銘グスクもそうですが、山原の間切規模のグスク内に神アサギがあるのも特徴となっています。
国頭地方の根謝銘(ウイ)グスクを手掛かりにグスク(あるいはウタキ)と村(ムラ)と首里王府との関わりを示す痕跡を直に拾っていきます。今帰仁グスクと周辺のムラとの歴史的な変遷と共通した部分がいくつもあり、また今帰仁グスクでは見えなった村(ムラ)とグスクとの関わりも、新たな視点でみることができます。
現場でグスクやウタキや山原のムラ・シマの見方を学んでいきます。お楽しみに!
6月12日(土)
9:00 今帰仁村歴史文化センターに集合
出席の確認/レジュメの説明
↓ 9:40 大宜味村根謝銘(ウイ)グスクへ出発(マイクロバス)
↓ 10:40 城と根謝銘の集落を見ながら城ヌルドゥンチ跡
↓ 11:00 ウドゥンガー/トゥンチニーズ・ウドゥンニーズなど
↓ 11:30 ウイグスク内の神アサギ・二つのウタキ(イベ)
地頭火神の祠・グスク内のカー・堀切など
グスクからみた屋嘉比港(国頭間切番所があった浜集落)
↓ 12:20 屋嘉比港からみた根謝銘(ウイ)グスク
↓ 13:10 歴史文化センター着(予定)
(時間があれば報告会をします)



根謝銘(ウイ)グスクと村々(国頭地方)(レジュメ)
大宜味村謝名城にある根謝銘グスク(ウイグスク)を訪れる。根謝銘(ウイ)グスクと周辺のムラ・シマを踏査しながら、ムラ・シマとウタキ(グスク)との関わりの痕跡を辿ってみる。「グスクと周辺の集落と村」との関わりを確認していく。根謝銘グスク(ウイグスク)は『海東諸国紀』(1471年)で「国頭城」に相当するグスクを見られる。このグスクのある字謝名城は大宜味村(ソン)であるが、1673年以前は国頭間切の内である。また根謝銘(ウイ)グスクを見ていく場合、国頭地方(後の間切)を統括していた時代、国頭按司(一族)が首里に集居させられた後などを踏まえて見ていく必要がある。
1.国頭間切の国頭(クンジャン)は同村根謝銘(インジャミ)?
国頭は根謝銘から来ているのではないか! これまで間切の名称が同村名から来ているのが多い。国頭間切に同村名の国頭村がない。1673年に大宜味間切が創設される以前の国頭地方(間切)の拠点は根謝銘グスク(別名ウイグスク)とみられる。すると国頭間切の同村は根謝銘となる。根謝銘はインジャミと呼んでいる。国頭はクンジャンである。間切名と同村との関係からすると、インジャミに国頭(上)の漢字を充てたのではないか。『海東諸国紀』(1471年)には根謝銘グスクの位置に「国頭城」を充ててあることもあり、インジャミに国頭をあてたともとれる。山原では国頭間切(クンジャン)の同村が根謝銘村(インジャミ)であれば、間切名と同村名が一致しないのは羽地間切のみである。
宮城栄昌は『国頭村史』(5頁)で「国頭はくにかみ・くにがみ・くんがみ・くんじゃみ・くんじゃん・くんちゃんと転化した形で呼称される」とあるが、逆にクンジャンやクンジャミやインジャミに「国頭」や「国上」の字を充てたのではないかと見ている。
・国頭間切(クンジャン・クンジャミ)→根謝銘村?(インジャミ)?
(番所は?→浜村→奥間村へ)
・今帰仁間切→今帰仁村
・金武間切→金武村
・名護間切→名護村
・久志間切→久志村(番所は瀬嵩村ヘ)
・恩納間切→恩納村
・田港間切→田港村(後に大宜味間切→大宜味村・塩屋村へ)
・伊野波間切→伊野波村(後に本部間切)
・羽地間切→田井等村(親川村の創設で番所は親川村)
現在の謝名城は明治36年まで根謝銘・一名代・城の三つの村が合併した。それとグスクの北側に位置する田嘉里も明治36年まで親田・屋嘉比・見里の三つの村の合併である。国頭地方の要となったとみられる根謝銘グスク(ウイグスク)と周辺の集落との関わりを見ていこうとするものである。間切規模のグスクと集落との関わりを知るモデルとなるとケースである。
2.根謝銘(ウイ)グスクと集落と村(ムラ)
根謝銘グスクは大宜味村謝名城にあるグスクである。別名ウイグスクという。ウイグスクの呼称は城(グスク)があるので、区別するための名称であろう。ここで使っている集落は、古琉球の時代のマキ・マキヨ規模の家々の集まりとして捉えている。100軒余の場合もあれば、30軒そこそこの場合もある。それらの集落が、後に行政村(ムラ)として線引きされたと見ている。ウイグスク内に大城嶽と中城嶽があるが、『琉球国由来記』(1713年)にはウイグスクと祭祀(グスクノロ)と密接に関わる根謝銘村と城村は大宜味間切に属している。城村の小城嶽はウイグスクの中城嶽にあたるか(確認必要)。
【大宜味間切】
・城村の小城嶽(神名:大ツカサナヌシ)
・城村に城巫火神(按司・惣地頭が関わる)
・根謝銘村のガナハナ嶽(神名:シチャラノワカツカサ御イベ)
ただし、同じくウイグスクでの祭祀(屋嘉比ノロ)と関わる御嶽が記されている。屋嘉比ノロ火神は『琉球国由来記』(1713年)当時、国頭間切に属した見里村にある。ウイグスク内の中城嶽は見里村の中城之嶽を指しているのか、ウイグスクの大城嶽を指していると見られるが(確認必要)。
【国頭間切】(1719年に大宜味間切へ)
・親田村のガナノハナ嶽(神名:シチャラノワカツカサ)
・屋嘉比村のトドロキノ嶽(神名:イベナノツカサ)
・見里村の中城之嶽(神名:大ツカサ)
・濱村のヨリアゲ森(神名:カナミユアトヤノ御イベ)
(浜村は屋嘉比村近くから加名良原へ移転、さらに現在地へ)
これらの村が明治13年にどのくらいの規模であったのか示してみる。世帯数で20世帯余、多い所で40世帯足らずである。近世、あるいは古琉球の時代になると、もっと小規模(マク・マキヨ)であろう。
・根謝銘村・・・・・世帯37戸、人口183人(男92人・女91人)
・一名代村・・・・・世帯21戸、人口114人(男64人、女50人)
・城 村 ・・・・・・世帯21戸、人口118人(男52人、女66人)
・親田村・・・・・・・世帯25戸、人口136人(男65人、女71人)
・屋嘉比村・・・・・・世帯28戸、人口161人(男82人、女79人)
・見里村・・・・・・・世帯27戸、人口166人(男85人、女81人)
合併した謝名城は城ノロの管轄、そして田嘉里は屋嘉比ノロの管轄である。城ノロ管轄のムラは根謝銘グスク(ウイグスク)の中城(ナカグスク)御嶽(そこはイビだとイビ考えている)に左縄を巡らし、屋嘉比ノロ管轄のムラは同じく根謝銘グスク(ウイグスク)の大城(ウフグスク)御嶽(イビ)に左縄を張り、イビに向かって拝んでいる。本来ウイグスク全体が御嶽であり、それに寄り添うようにあった集落の御嶽であり、大城御嶽や中城御嶽と呼ばれているところはイベに相当する。そう見ていくと、御嶽その中のイベ、そして集落との関係が見えてくる。さらにグスクと集落や村との関わりも(集落移動など含めてのことは別稿で)。『琉球国由来記』(1713年)の頃、親田村・屋嘉比村・見里村は国頭間切である。三つの村が大宜味間切に組みかえされたのは康煕58年(1719)である。
グスクの上り口にウドゥンニーズ(御殿根所)とトゥンチニーズ(殿内根所)がある。宮城真治の『宮城真治民俗調査ノート』に御殿と殿地の場所(屋敷地)が記されているが、昭和2年には御殿敷地に火神が祭られている。

▲グスクと周辺の集落と村(ムラ) ▲城にあった印部石「ゑ くすく原」
▲麓にある一名代の集落 ▲根謝銘の集落
▲城の集落とウイグスク
【根謝銘(ウイ)グスクと関わる出来事】(歴史)
・大宜味村謝名城にある。
・根謝銘グスクはウイグスクと呼ばれる。
・標高100mの所に位置する。
・14~15世紀頃の筑城で大型のグスク
・丘陵頂上部に本部石灰岩で石塁をめぐらしてある。
・ウイグスク内に大グスク(イベか)と中グスク(イベ?)がある。
・出土遺物(土器・カムィ焼・青磁・鉄釘・獣骨などが出土
・貝塚も確認されている。
・1471年の『海東諸国紀』の「琉球国之図」に根謝銘(ウイ)グスクに「国頭城」とある。
(国頭按司の居城か。「国頭城」は北山滅亡後の「監守」制度を示しているものか)
(国頭間切の拠点は根謝銘(ウイ)グスクとみられる。国頭按司はまだウイグスクに居城か)
・1522年(弘治11) 真珠湊碑文に「まかねたるくにかミの大ほやくもい」(国頭の大やくもい)とあり首里居住か。
・1624年(天啓4) 「本覚山碑文」に「国かみまさふろ」とあり、首里居住か。
・1597年(万暦25) 浦添城前の碑に「くにかミの大やくもいま五良」とあり、その当時の国頭大くもいは首里に居住か。
・根謝銘(ウイ)グスクは1500年代まで(各地の按司を首里へ集居)は国頭按司の居城地か。
(1673年まで国頭間切は大宜味間切を含む地域である。大宜味按司はまだなし)
・国頭間切の安田里主所安堵辞令書(1587年)の「くにかみまきり」は大宜味間切分割以前
(その頃国頭按司は首里に住む)。
・国頭間切の安田よんたもさ掟知行安堵辞令書(1587年)の「くにかみまきり」は大宜味間切分割以前
(その頃国頭按司は首里に住む)。
・神アサギ/ウドゥンニーズ・トゥンチニーズ/地頭火神/カー/堀切/アザナあり
・旧暦7月に海神祭が行われる。
・按司墓あり
・屋嘉比川の河口に屋嘉比港あり(オモロ)
・『絵図郷村帳』(1648年頃)に「国頭間切 ねざめ村・城村・はま村・屋かひ村」とある。
・『琉球国高究帳』に「国頭間切 城村・屋嘉比村」とある。
・屋嘉比川の下流右岸に国頭番所(浜村)が置かれた。後に奥間村へ。
・1673年に国頭間切を分割して国頭間切と田港(大宜味)間切が創設される。
田港間切の番所は田港村へ、後に大宜味村(旧記の頃)、さらに塩屋村、さらに大宜味へ施設。
・1673年に屋嘉比村から見里村が分離したという。
・1673年後に屋嘉比村から親田村が分離したという。
・根路銘(ウイ)グスク内の地頭火神は国頭按司と国頭惣地頭火神と大宜味按司と大宜見親方の火神が重なっても
問題なし。
(国頭按司地頭クラスの石燈籠は国頭村比地・辺戸・奥にあるので、間切分割後の国頭按司は国頭間切内へ)
・1695年 屋嘉比村・親田村・見里村が国頭間切に移される。
・1713年『琉球国由来記』に、「大宜味間切 城村・根謝銘村」、「国頭間切 濱村・親田村・屋嘉比村・見里村」がある。
・1719年国頭間切の村であった見里村・親田村・田嘉里村が大宜味間切へ。
(1736~95年の絵図には番所は塩屋村にあった:大宜味役場蔵?)
・1732年(雍正10) 国頭番所は浜村から奥間村へ移設。
・明治36年に根謝銘村と城村と一名代村が合併し謝名城村となる。
・明治36年に親田村と屋嘉比村と見里村が合併して田嘉里村となる。
・明治41年に国頭間切は国頭村(ソン)、大宜味間切は大宜味村となる。これまでの村(ムラ)は字(アザ)となる。
・1911年塩屋にあった役場を大宜味へ移転。
※根謝銘グスク内の御嶽(イビ?)の名称は『琉球国由来記』(1713年)とでは混乱しているようである。
・中城之嶽(神名:大ツカサ)(見里村・屋嘉比ノロ管轄)・・・大城の嶽(田嘉里:屋嘉比ノロ)(当時国頭間切)
・小城嶽(神名:大ツカサナヌシ)(城村・城ノロ管轄)・・・中城の嶽(謝名城:城ノロ)(当時大宜味間切)

▲屋嘉比港からみたウイグスク ▲ウイグスクから見た屋嘉比港 ▲グスク内にある神アサギ

▲グスク内にあるウフグスク嶽(イビ) ▲グスク内にあるナカグスク嶽(イビ) ▲地頭火神の祠

▲国頭按司(大宜味按司?)の墓 ▲ヌルガー ▲トゥンチニーズとウドゥンニーズ

▲今帰仁グスクが遠望できる ▲国頭按司寄進の石燈籠か(奥)

▲城ノロドゥンチの建物 ▲ノロドゥンチの側にある石の香炉
【大宜味村謝名城のウンガミ】(ノロ管轄を含めた村を考えるべき)
島袋源七氏の『山原の土俗』(大正14年)から大宜味村謝名城のウンガミの流れを詳細に記録されているので参照することに。今では簡略化されているので、ウンガミの全体の流れを押さえる必要あり。根謝銘グスク周辺の謝名城と田嘉里だけでなく、喜如嘉も含めてみるべきである。
・毎年旧七月廿日後の亥の日に行われる。
・参加者 田嘉里・謝名城・喜如嘉・饒波・大宜味(神人数10人参加)
[1日目](ウタカビ、又はウングマイ)
・大祝女および若祝女はピラモト神を連れて喜如嘉の根神の家へ(白装束で垂神で祈願)
ハンサガ(神人になる人の就任式:一夜を過ごす)
・他の神人は朝グスクの神アシアゲに集まり祈願(朝ヌブイ) 遊びピラモト神(山の神)は神踊りの練習。
[2日目](儀式の当日)
・朝はグスク及び根謝銘の神人は籠を用意して喜如嘉のウングマイの神人を迎えに行く。
・神人は駕籠に乗りグスクの祝女殿内へ。むかしは馬や駕籠で。(当時は徒歩で)
・祝女殿内に集まった神人はすべて白衣、マンサギ(鉢巻)を頭に結び六尺の弓と矢を持ち、片手に赤い団扇を
持って、太鼓を打ちながら行列して神アシャギに向う。(昔は駕籠に乗ったらしい)
・途中火の神を祭った祠あり(ウドゥンニーズとトゥンチニーズか) 二ヶ所で祈願をして神アシャゲへ。
・神アシャギに到着すると神人は各自定められた場所に着席する。
(祝女を上座に若祝女・年神・ウチ神・ビラモトゥ・遊ビラモトゥなどの神人が(24人)が順に並ぶ。他の神人は庭に
坐る)
・氏子は各字交じってアシャゲ前のクバが茂った拝所の左右に着席し、各自酒肴を供しして氏神をまつる。
・アシャギに向って左端に冬瓜で作った猪を据え、右端に槍と弓を立てておく。
・祝女は時刻をみはからって祈願を始める。祈願が終わると全部庭に出て定められた場所に着坐する。
・喜如嘉でウングマイした神人を上座に迎え、城及び根謝銘の遊びビラモトゥ神は神人の真中に出て神踊り
をする。
・1回目の神踊りは遊びビラモトゥ8名が円陣を作り両手を広げ左回りをしながら両手をあげたり下げたり
する。
「ウンークイ、ウンークイ」を唱えながら三回ほど繰り返す。
・2回目はその場に円陣を作り一人は太鼓を打ち七名は弓を持って用意をする。
太鼓がなると同時に七名は弓を持って用意をする。太鼓がなると同時に右上に弓を捧げ右に一歩進み、
左に捧げて一歩左に寄り、繰り返す。三回まわって終わる。
・3回目 その場で衣装をかえる。赤地の神衣装、白衣装、黄色の衣装を来て各自頭にハーブイ(クロツグ)
を被る。
右手に弓、左手に矢を持ち、ウムイを唄うと同時に右に回り両手を上下させて舞う。遊びビラモトゥ神の一人が
音頭ををとり太鼓を鳴らしてそれに和する。三回回りながら踊って終わる。
・4回目 縄遊びを行う。その場所で行うが、まず左方に一間程離して棒を立て両方の棒に縄の両端を結び舟の
形をつくる。三回目と同じ装束で、その中に楕円をつくり、右端に太鼓を打ち三名オモイの音頭取り一人立ち、
太鼓の鳴るのと同時にオモイを唄い、それに和して扇を振りながら踊る。
・踊りが終わると見物中の神女の一人が蜜柑を踊り手の真ん中に撒く。それが終わると猪を取る真似をして飾っ
てある冬瓜を槍で突きころがす。
(神アシャギ庭での行事は以上。縄遊びがすむと他の神人は氏子と帰宅)
氏子は尾花に石を込めて結んだサンを二つづつ神に捧げ、これを持参して家に帰り火神の前に捧げる。
健康と繁昌を祈る。他人に跨がしたら効き目がないので各自大事に持ち帰る。
・祝女・若祝女・海の神はアシビビラモトゥ神と同道し、途中ウムイを唱え扇を振りながら帰り、途中火の神の祠でも
同じ歌を唄いながら祝女殿内に帰る。
・祝女殿内で歌を唄い踊りをして、再び神アシアゲで祈願をする。
・5回目 神アシアゲに帰り祈願をして猪神、酒樽、鼠とをお供にかつがせ、アソビビラモトゥ・祝女・若祝女は
海の神をお供して(駕籠に乗る)喜如嘉に行き、そこの根屋に集まって再びオモイを唱えて踊る。
・歌を済ませると行列して喜如嘉の浜へ。途中にアミガーがあり、そこでも同様なことをする。
・6回目 ナガレ。喜如嘉の浜へ行列をつづける。お供に持参させた猪・鼠を捧げ、神酒を供して海を拝し、
また山を拝し踊りに使ったハーブイと共に海に流す。これを「流れ」という。
・海辺での行事が終わると喜如嘉の根屋に帰って祈願ををし神人は一夜を明かす。当日の儀式の終わりを告げる。
・別れ 祭りの翌日に行う。喜如嘉の神アシアゲに遊びビラムトゥと喜如嘉の神人が集まって神酒を捧げて祭りの
終わりを告げる。オモイを歌って城から来た神人は駕籠で城神アシアゲに帰る。
・神人の行事はこれで終わるが、各字の氏子は各々定めの遊び、臼太鼓踊り・村芝居・エイサーなどをする。
(工事中)
祭祀がグスク(ウタキ)を維持し続けてきている(首里城は政治と祭祀の両面ある)。沖縄のグスクが世界遺産に登録されていく過程で、精神文化を条件の一つとされたのは、そのためである。今帰仁グスクにおける今帰仁ノロ管轄の村(ムラ)や集落(人々)と今帰仁グスク(城内のウタキ:イベ)での祭祀(ムラレベルの祭祀)を丁寧にみていく必要がある。同時に北山監守を務めた今帰仁按司一族の祭祀(クニレベルの祭祀:今帰仁阿応理屋恵)もである。クニとムラレベルの祭祀を整理して議論がなされるべきである(もちろん、重なっている部分もある)。