2012年02月29日(水)
今帰仁村諸志の字誌の編集会議。戦争の聞き取り調査をする。話を聞きだすキーワードの整理をしてみた。昭和16年あたりから、昭和20年の大浦収容所から帰村まで。どのような出来事があったのか。聞き取りすることに。これから編集会議へ。



2012年02月26日(日)
これまで調査してきた
奉寄進の香炉や石燈籠の部分を一ヶ所にまとめてみた。上国する王子や按司、そして随行していった奉公人、後に奉公人が間切役人となり、首里王府との関係を結びつけ、さらには江戸上(江戸立)の時の演目を地方の村々に伝えていく様子が伺える。上国に随行していった奉公人達が果たした役割が、寄進した香炉や石燈籠の年号や随行人から、首里王府の地方(間切)の統治、さらには地方への芸能の伝播の様子が伺えて興味深い。奉寄進の香炉が無事帰国したことへのお礼としての奉納であることがわかる。数多く香炉があることは、その間切や村から何人もの上国の随行者が奉公人として関わったことの証でもある。そのことは「地方(間切)への伝統芸能の伝播の痕跡」(『操り獅子調査報告書』(沖縄県文化財調査報告書148集:平成21年)で報告。
2012年02月25日(土)
これまでの調査記録をテーマ毎に集め整理していきます。試みとして「本部町具志堅の調査」を集めてみました。
本部町具志堅は、すでに「今帰仁グスクが抱えた村―具志堅を中心にして―」として『なきじん研究』(13号)に収録しました。その後の調査記録を含めて再度まとめ直します。10年を振り返ると、調査記録、あるいは論文は固定されるが、歴史や社会は生き物だと実感させられます。
2012年02月24日(金)
「沖縄のノロの終焉」のタイトルで話す機会があった。奄美から久米島まで。この企画展も今月で終了。これまで調査してきたノロについて総まとめをする。
【伊平屋島のノロ】
(伊平屋のあむがなし・南の二かや田のあむ・北の二かや田のあむ)
伊平屋島の三人のノロと祭祀について。玉ガアラ、手モチガワラを佩用、御髪差(金のカブの簪)、御衣などについて。それと『琉球国由来記』(1713年)の祭祀に記されている「日撰び」と「遊び」。それは首里王府が決める重要なものである。そのことを強調。
【正月朔日】
この日アムガナシ家では公儀の祭具の装備を整え、アムガナシは王家から拝領の玉ガアラ、手モチガワラを佩用、御髪差(金のカブの簪)、御衣で公儀の正装をして正座につき、ノロ、根神などが揃って、唄を謡い、アムガナシを拝して盃(さかずき)をいただく。
【二月】
・麦穂祭 二月、公儀より日を撰び拝む。遊び二日の事。
【三月】
・麦大祭(三月朔日) 公儀より日を撰び拝む。遊び二日の事。
【四月】
・山留・海留(四月朔日~五月晦)・・・
・アブシバレー 四月、公儀より日撰(二九日)拝み、遊び二日の事。
【五月】
・稲穂祭 五月、公儀より日撰び、拝むこと。遊び三日の事。
【六月】
・稲大祭 六月、公儀より日撰び、拝むこと。遊び三日の事。
・ミヤ口折目 六月、島中にて日を撰び、遊び一日の事。
【海神祭】
・旧盆後間もない七月十七日に行われる。七月島中にて日を撰び。遊び一日の事。
・年浴のこと 六月、公儀より日撰び拝み、遊び二日の事。
【七月】
・海神折目 十一月島中?にて日撰び、
遊び一日の事。(シニグ折目と対)
(旧暦七月十七日が海神、十八日がシヌグ)
・屋那覇折目 七月島中にて日を撰び、
遊び二日の事。
【八月】
・柴差 八月公儀より日撰び拝む。
遊び二日の事。
【九月】
・麦初種子 九月、公儀より日撰び、麦播き始め
一日遊び申す也。
【十一月】
・具志川折目 十一月島中にて日撰び、
遊び一日の事。
・アラゾウリ 十一月、公儀より日撰び拝み、
遊び一日の事。
・粟・豆・初種子 十一月公儀より日撰び拝む。(遊びの日記載なし)
【十二月】
・向ザウリ 十二月、公儀より日撰び拝み、
遊び一日の事。
・鬼餅 十二月公儀より日撰び拝む。
遊び一日の事。
・タケナヲリメ 十二月、島中にて日を撰び、
遊び一日の事。
2012年02月22日(水)
多忙中なり!

2012年02月17日(木)
徳之島の手々(徳之島町)に立ち寄る。『のろ調査資料』(宮城栄昌・富村真演・中山盛茂共著)で、徳之島のノロについて以下のようなことが記されている。まずはそれらの情報を持ちながらノロや拝所や祭祀を見る必要がありそうだ。今回徳之島町郷土資料館で、掘田(稲富)家文書や二本の簪と布などを拝見させていただきました。てゝノロの辞令書や二本の簪や布(帯?など)は徳之島(奄美)における薩摩支配以前、その後のノロの変容を知る上で貴重な史料である。
・徳之島は三つの間切に分れる。
・三山分立時代には、与論・沖永良部・鬼界島とともに北山王の支配下。
・奄美大島は中山王の支配下。
・与路・請島は徳之島下に属していた。
・首里の主の子孫とするものが大親役として全島を行政的に支配、その下に与人・目指・筆子・掟がいて間切や村を治めていた。
・神女組織として全島支配の大阿母がいたはずであるが記録・伝承につたわらない。
・西古見にオハムシラレ墓がある。
・各部落毎にノロがおり、カンギャナシ(神加那志か)ともいう。
・その下に根人(ニッチュ)・オツカミ・シドカン(勢頭神か)グーシなどがいる。
・ノロにアラホレとく女性がついていた。
・昔はカンギャナシ三十三ヶ所、神人約六十人がいたという。
・ノロの祭祀中重要なものは、二月壬申に迎えて四月壬申に送るナルコ神(山幸)テルコ神(海幸)。それは、豊作・豊漁の祈願
が主。
・春のイナグンヘー(麦の初穂祭)と夏のナツヲンミ(稲の初穂祭)として麦・米をノロに捧げる(沖縄の二、三月の麦穂祭及び麦
大祭、五、六月の稲穂祭及び稲大祭に相当するか)
・祭りの時のノロの服装は、筒袖白衣で珍絹を頭に被り、勾玉を頸にかける。
・ショウジ(イジュン:清水・湧泉)は水の神の祈願。
・ノロが琉球王への貢納物の調達、貢納船の航海安全の祈願(同様な祈願は沖永良部・宮古・八重山などにもある)
・徳之島の山ノロが与路・請島への途中トンバラ石に漂着し、その事故後両島は別の間切となった伝承。
・薩摩支配後もノロの存在は黙認される。
・1628年薩摩は琉球王による任命を禁止する。享保年間ノロが代替わり毎に渡琉して聞大君に拝謁することを厳禁する。
・役地も取り上げるが、ノロの存在は黙認される。
・奄美本島では寛政年間まで亀津代官所で豊作祈願・雨請を行う。年三回のウンメ(折目)祭を行い、民間の生産・新築・旅立
御願を行い、豚・鶏・米・縄などの献上を受ける。
・文政14年薩摩による砂糖総買上げから、ノロへの弾圧も強化される。安政2年迷信禁止が出される。
・明治2年の廃仏毀釈の際、カンギヤナシは桎桔に乗せ祭祀を廃止する。ノロの衣類や珠玉などを焼く。
・天文元年井之川村の安住寺を廃止して高千穂神社を亀津・面縄・阿布木名に創設する。
(工事中)
【奄美のノロ辞令書】(⑥⑦はノロ辞令書?)
①喜界島の阿伝ノロ辞令書(隆慶3:1569年)
②宇検村(屋喜内間切)名柄ノロ辞令書(1583年)
③名瀬市大熊ノロ辞令書(万暦15:1587年)
④徳之島にし間切てゝノロ辞令書(万暦28:1600年)
⑤瀬戸内西間切の古志のろ職補任辞令書(万暦30:1602年)(奄美大島)
⑥(瀬戸内町の須子茂のねたち)(万暦2:1574年)
⑦(瀬戸内町の須子茂のたるかち)(万暦2:1574年)

▲掟大八目の墓(按司墓) ▲六名の下臣の墓碑 ▲按司墓の案内板
▲掟大八の力石説明版 ▲掟大八が力ためしに持ちあげたという石(左)
▲徳之島町郷土資料館所蔵の二本の簪 ▲西目間切てゝのろの辞令書
2012年02月15日(水)
【大城城】(フーグスク:天城町松原上区)
天城町に大城(フーグスク)・大和城(ヤマトゥグスク)・玉城(タマグスク)などがある。今回大城の頂上まで登る。標高329mの山で頂上部に平坦部があり、郭があり、土塁と一部石積みが見られる。頂上部の平部の中央部にトタン葺きの拝所がある。その後方の最高部はウタキのイベにあたる場所がある。グスクやウタキを構成する石積みや土塁、曲輪、南風門、辰己門、虎口跡・見張台などがある
(鹿児島県の地名:平凡社)。
そこから徳之島の東海岸の宮城(徳之島町花徳)や西海岸の大和城(天城町天城)や玉城(天城町天城)が見渡せる。大城は麓の松原集落との関わりより、徳之島全体を統括するノロクメの祭祀場と見ることができそうである。祭祀は集落というよりノロクメ一門の祭祀場のようである。
【徳之島のノロ】
『伊仙町誌』に「徳之島のノロ関係断片資料によると、いつの時代かわからないが、各部落にノロを置いたようで、それによると面縄間切に十一名、東間切に十一日、西目間切十五名、合計三十七名の名前が書かれている。各部落においたが、いなかった部落もあるところから、一人で二部落くらい兼務したようである」とある。各部落の拝所(グスクや神社など)にノロ(ノロクメ)と関わる伝承が根強くあるのは、そのことを物語っているのであろう。
大城城の登り口に案内版が設置されている。説明版に以下のようにある。
「大城城(ふぅぐすく) 中世の山城、按司ガナシの居城と言われ、石垣など遺構が残る。
徳島真世湾按司の武勇伝説の美人妻をめぐる真牛湾按司と武勇の達人インカセクマゼ
の忠勤賢者伝説が伝わる。その後、琉球王朝時代にはノロの祭り場となったといわれ、
今でもその子孫が祭りを行っている」
・徳之島西目間切てゝノロ辞令書(万暦28:1600年)
しよりの御ミ事
とくのにしめまきりの
てゝノロハ
もとののろのくわ
一人まなへたるに
たまわり申す候
しよりよりまなへたるか方へまいる
万暦二十八年正月廿四日
【沖永良部島のノロ】
沖永良部島のノロを謡ったおもろがある。「ゑらぶおわる 三十のろ」「三十のろは」と謡われているので徳之島に部落の数ほどのノロがいたことがわかる。島全体のノロを統括したノロが各島にいたと見られる。ノロとヒャー(百:役人)は一体の関係にある。ノロ家の男側は役人を勤めている。
【ノロとヒャーや役人】
例えば今帰仁間切の中城ノロ家に、10枚の辞令書があった。二点がノロ辞令書で他は大屋子・掟・目差などの役人の辞令書である。本部町の仲村家の三点の辞令書の一枚は具志川ノロ辞令書で、他の二点は目差・掟の役職の辞令である。
奄美大島の宇検村名柄の吉久家に五点の辞令書がある。同家の五点の内一点がノロ辞令書で、他は掟・目差の役人職の辞令書である。
①屋喜内間切の名音掟職補任辞令書(嘉靖33年:1554)
②屋喜内間切の名柄掟職補任辞令書(嘉靖35年:1556)
③瀬戸内間切の阿木名
目差職j任辞令書(隆慶5年:1571)
④屋喜内間切の崎原目差職補任辞令書(隆慶6年:1572)
⑤屋喜内間切の名柄のろ職補任辞令書(萬暦11年:1583)
▲大城城昇り口の説明版 ▲城への登り道(左側に空堀あり) ▲頂上部の平場の拝所(祠)
▲頂上平場の祠の後方の碑 ▲頂上部にある標柱(三三八)▲頂上部から東海岸が望める(靄のため見えず)
2012年02月14日(火)
徳之島の三つの町の集落を踏査する。今回の目的は主に集落と神社(拝所)の関係をつかむことである。各集落の神社や神山などの拝所は、ウタキと集落(グスク)の関係と類似している。集落と祭祀場との関係で見て行くと、徳之島に「古琉球の集落形態」が息づいている。集落の神社になっている拝所は、集落の氏神として祀られている。明治初期になって神社化されている
(祭祀との関わりでまとめてみる)。取り急ぎ、踏査した集落を並べてみる。
ノロ伝承をもつグスクや拝所や祭祀も集落をみていくキーワードになりそうである。
▲水神神社(徳之島町:下久志) ▲水神様の説明版 ▲コウヌ山(琉球のウタキか)
▲宮城山(スリバチ山) ▲宮城山(菅原神社):グスク ▲ウタキのイベに相当する
【徳之島町】
①亀徳 ②徳和瀬 ③井の川 ④下久志 ⑤池間 ⑥母間 ⑦花時名 ⑧花時 ⑨(畦) ⑩山 ⑪金見 ⑫手々
・観音堂(諸田村:1670年建立)
【天城町】
①与那間 ②松原 ③(西区・上区) ④前野 ⑤岡前 ⑥朝間 ⑦天城 ⑧平土野 ⑨兼久 ⑩大津川 ⑪瀬滝 ⑪当部 ⑫西阿木名 ⑬三京
【伊仙町】
①亀津 ②(南原) ③喜念 ④目手久 ⑤面縄 ⑥検福 ⑦伊仙 ⑧阿三 ⑨阿権 ⑨犬田布 ⑩崎原 ⑪糸木名 ⑫馬根
・弁財天(亀津村の拝山:1710年)
沖永良部島
・弁財天宮(和泊村:1704年)
2012年02月08日(水)
読谷山をゆく(歴史文化センター運営委員会)。民俗資料舘・座喜味城跡・喜名番所・伊良皆(墓・カー・殿など)・比謝泉(古堅)・比謝川沿いの墓・渡具知港・泊グスクなど。
9日から徳之島へ。どんな調査になるか楽しみなり!調査の準備ができずアタフタ。それと10日〆切りが二点ありますが、それは来週になります。悪しからず。
2012年02月07日(火)
大学の後期、最後の授業。総まとめとテスト。後期15回の講義の確認。奄美から波照間島まで。1609年以前の琉球国の域を踏査してきました。まだ、学生達(81名)のレポート(15回の講義を通して)に、まだ目を通していませんが、楽しみです。
①伊是名島のムラ・シマ
②名護湾岸のムラ・シマ―名護村(城・東江・大兼久)など―
③国頭のムラ・シマ
④恩納村のムラ・シマ―恩納を中心に―
⑤沖永良部島のムラ・シマ
⑥ノロ制度と地域文化
⑦久志間切域のムラ・シマ―久志・瀬嵩―
⑧勝連半島のムラ・シマ―勝連グスクと南風原村の祭祀―
⑨二つの大里城とムラ・シマ
⑩久米島のムラ・シマ
⑪宮古島のムラ・シマ
⑫八重山のムラ・シマ
⑬国頭のムラ・シマ―辺戸・安田―
⑭名護のマチの発達と桜(ヒカンサクラ)
⑮山原(北山)の歴史と文化
総まとめとテスト
【国頭・大宜味の村墓】
旧暦の1月16日である。グソウ(後の世)の正月である。16日になると大宜味村や国頭村の海岸沿いの墓地で一門が集って墓の清掃やウガンをする様子が伺えるのだが、墓掃除の姿がほとんど見かけなかった
(5日は16日ではなかったのだ!今日が16日)。それと掃除をしている方に伺うと新暦の16日に済ませたのではと。なるほどと納得して帰ってきた。今朝、16日は今日ですと
(日違では調査になりません)。
大宜味村と国頭村を訪ねたのは村墓と呼ばれる墓がどうなっているか(現在、ほとんどが一門墓や個人墓になっている)。塩屋のハーミジョウの麓にある村墓(共同墓)は現在使われていなので、グソウの正月は村墓でやっていないようである
(新暦でやったのかな?確認が必要)。
村墓の後方のハーミジョウであるが、ジョウに門をあてるのが一般的である。屋号に門前(ジョウメー)・徳門(トクジョウ)・仲門(ハカジョウ)・新門(ミージョウ)・浜門(ハマジョウ)などがある。このジョウは門と記すが門(モン)ではなかろう。そのジュウは場や場所と見た方がいい。もちろん首里城の継世門(けいせいもん)を赤田御門(あかたうじょう)のように門をジョウと呼ぶ場合もある。しかし、屋号のジョウは場や場所を解した方がいい場合がある。例えば、浜門は浜の場所、新門は新しい場所など。
そこで塩屋の村墓の後方の森をハーミジョウと呼んでいる。ハーミは神、ジョウは場所と解すると神のおわす場所である。その森の麓に村墓(墓地)になっている。そこは村人の先祖が葬られている場所である。塩屋の村墓(ムラバカ:共同墓)は今は使われなくなっている。
▲大宜味村塩屋の村墓(共同墓) ▲塩屋の村墓、墓口の蓋は開けられている
2012年02月04日(土)
午前中、今帰仁村古宇利小学校(10名)の学習発表会へ。総合学習で関わった生徒達の成果の見学と励ましに。学習発表の全体を見ることで、学校を通して歴史文化センター(博物舘)の役割を認識させられました。同時に、学校全体の目標を知ることできました。生徒達に地域を通して、自信と誇り、そして発見や感動をさせることができるか。生徒達の発表を通して、その手掛かりをいくつも手にすることができました。
古宇利島にあるガマ(スルルガマ)を通した古宇利島からのメッセージの訴えるものは、余韻としてずっと残っています。戦時中、あのスルルガマに避難した島民は一人も命を落すことがなかった(収容所に連れて行かれるが)。そのことが、ずっと胸をうち続けています
(生徒達が描いたスルルガマ。島の人達の命を救ったガマ)。

▲スルルガマで命を落とすことはなかった島の人々 ▲スルルガマでの戦争体験は私たちが伝えていきます!
2012年02月03日(金)
本部町並里の満名殿内は何度が訪れている。下に示すような遺品は確認することは出来ない。今帰仁上りで訪れる門中は多い。それとマーグミ(旧暦7月20日)、ハンラレートゥ(旧暦7月24日)、シヌグ(旧暦7月25日)、シニグワカレ・旅の御願(旧7月26日)などの村の祭祀の重要な場所となっている。そのような祭祀に満名殿内から供え物が提供される。
満名殿内の近くにウタキがあり、その前に
並里神社や神アサギがある。アサギミャー(庭)でシヌグが行われる。ウタキ内に香炉がある。その一基に「本部按司内」とある。「奉寄進 咸豊九年己未九月吉日 本部按司内 渡久地仁屋」(1859年)と「奉寄進 年号不明 並里仁屋」とある。咸豊九年は本部按司朝章が薩州へ派遣された年である。その香炉に本部按司内とあるので寄進は本部按司の大和旅と関係があるのであろう。
【本部町並里の上の殿内(満名殿内)】
『沖縄県国頭郡志』(島袋源一郎:380―1頁)に、以下のようにある。
並里家は当地方に於ける旧家にして今帰仁本部及び県下各地方より神拝みと称し、巡礼する者甚だ多し。同家上座式の
左隅に御棚あり。按司位牌三個を祀り、霊前古櫃の中に古刀三振(大一本二尺七寸、小二本一尺五寸宛)、衣類二枚(一
は絹地、一は更紗)襦子の古帯一筋、羽二重の襦袢一枚とを秘蔵せり。同家の伝説に依れば中昔北山城主滅亡に祭し、
王族の隠遁せるものなりという。然れども父祖以来衆百年間の由緒甚だ秘密に附せられしも以て記録と口碑に曰同家は
元今帰仁城下にありて代々今帰仁ノロクモイの神職を継承せしが、後本部に移居sるうに及び現今帰仁ノロ家に之を譲りた
りと、その由緒の秘密裡に葬れれしは北山落城後、そのか仇敵今帰仁城主たりしに依るにあらざるか。
2012年02月01日(水)
『親見世日記』から山原に関わる記事を整理してみる。特に運天港の当時の様子や船の航路(往来)などをみる。まずは資料のピックアップから。
【親見世日記目録】(乾隆23、24年)
・本部間切ニ而御米積入候船頭屋久島之万右衛門、御米積入那覇江廻船之砌読谷山間切渡慶次沖ニ而致破船候付
改方之事(乾隆23年:1756)
・沖永良部島船頭大里、大島御積御米積入於洋中檣梶切捨、国頭間切江致漂着檣梶所望仕度旨仕度旨御付衆御方
江相 附願出之事(乾隆24年:1757)
・右ニ付御達被下候付国頭間切山筆者ヨリ代付之事(乾隆23年:1756)
・沖永良部島喜美留間切荷□船古船ニ罷成、於国頭方楷木取候儀御免被下候様訟出之事(乾隆24年:1757)
・運天之津江致潮懸候返上物積船並宮平親方乗船致出帆候段、在番よ里門問合書之頃(乾隆24年:1757)
・徳之島四人大和人一人永良部島女一人乗合、於国頭間切ニ致破船候付、彼島在番人より御問合之事(乾隆24年:1757)
・羽地間切呉我之船伊□之沖ニ而破船仕候付、乗組人数之内二人□行衛不相見得候付、横目中ヨリ申出之事
(乾隆24年:1757)
【親見世日記】(乾隆33年:1766)
・七月五日晴天南風(乾隆33年:1766)
一 四百八拾石積一艘 船頭種子島之 藤七
一 六百三拾一積一艘 同志布志之 喜三左衛門
一 六百九拾石積一艘 同坊津之 七兵衛
右去月(六月)弐廿六日那覇津出帆仕候処風不順相成、今日運天之湊江入相時分潮掛仕申候間、此段首尾申上候 以上
今帰仁在番 玻名城筑登之上
・七月二日
一 御米漕大和船三艘去月廿六日那覇川出帆仕候処追風不相続、去ル二日運天津江潮掛仕候由別紙之通在番人ヨリ
問合有之、差遣候間御在番所江御届可被申上候、以上
但在番人ヨリ之問合書御用相済次第可被差帰候
・七月六日
(工事中)

▲明治末期頃の運天港(『望郷沖縄』所収より) ▲平成2年頃の運天のムラウチ集落