今帰仁村制100年の歩み(企画展) 
                   (―資料展―)
        
平成20年10月10日〜21年3月22日まで
                    
【開催中】


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                                 平成20年度学芸員(博物館)実習へ

【今帰仁村 村制100年の歩み―】(企画展)

       
                    @展示会場正面


      B大正のコーナー                  A明治のコーナー


     C昭和初期〜10年代のコーナー           D昭和10年代の資料



          E昭和20年〜30年のコーナー 


     F優勝旗やアルバムのコーナー       G戦後間もない頃の地積図など


                  G昭和30年〜47年のコーナー


                 H昭和48年〜同63年のコーナー


                     I平成のコーナー

※各コーナーの説明は作成中


【企画展にむけて】

 明治41年「沖縄県及島嶼町村制」(村制)が敷かれ100年になる。これまでの今帰仁村間切(マギリ)から今帰仁村(ソン)となり、これまでの村(ムラ)が字(アザ)となる。残された文書を通して100年の歩みをみていくことにする。それらの文書資料の目録をつくり、文書資料は次の世代へ贈り物とする。
   
 


【展示作業】(10月8日の様子)

 昭和30年代から同47年までのコーナー。昭和33年から同47年まで沖縄ではドルが使われていた時代である。西暦を使うのが一般的である。学校関係の文書の年号は日本年号が目立つ。復帰に向かっての社会の動きが、どっちの年号を使うのか背景にあったと思われる。


 ▲昭和30年代〜47年までのコーナー      ▲昭和48年〜同63年までのコーナー

【展示作業】(10月5日の様子)

 
明治41年〜大正期、昭和元年〜昭和20年までのコーナー。いくつかテーマ展示。


    ▲昭和元年〜同20年までのコーナー     ▲明治41年〜大正15年までのコーナー


     ▲学校関係の資料                ▲昭和10年代のコーナー


 いつものことながら、展示過程も随時公開している(オープンできるところは)。全体の展示の流れが固まったので、本格的に展示作業がスタートする。一部コーナーが固まったので。



【10月4日の展示の進捗状況】








【1957年度】(仲尾次事務所)
 ・土地区別懇談会開催について
 ・読書週間行事プログラム
 ・成人の日の行事
 ・公民館設置管理に関する規則(案)
 ・農薬品の共同購入
 ・琉球地区送出の伯国呼寄移住者に関する件
 ・自家用屠殺畜届について
 ・政府補助による基本施設のフェィ台風被害調査報告
   (以下省略)

【1958年度】(字今帰仁)
  ・1958年度新入児前期用教科書並びに準教科書代残金納付願い
  ・砂糖品賃改善公衆会開催について
  ・蔗作農家戸数調に就いて
  ・生活改善施設実態調査について
  ・戦没者遺児の就職希望者調査について
    (以下省略)

【1959年度】(与那嶺区)
 ・失業対策労務員申請書について
 ・農業施設災害復旧事業補助金交付について
 ・安田橋請負工事契約に関する件
 ・六十周年記念事業寄付人名簿
 ・肉豚及仔豚販売調査報告に付いて
 ・夏植え面積調査
 ・各公民館映写会実施報告書
   (以下省略)








    ▲今帰仁村の19の字(アザ)の概要         ▲ボツボツ写真パネルの登場



          ▲箱から出して年度別に並べることから・・・


【1908年】(明治41)(間切長城間半蔵→村長)(〜1909.11.19)

 ・4月1日 今帰仁間切は今帰仁村となる。これまでの村(ムラ)は字(アザ)となる。
        間切長は村長となる。
 ・今帰仁村役場は運天にある。
 ・今帰仁村から初めてブラジル移民を送り出す(与那嶺仁五郎氏)


【1909年】(明治42)(村長・新垣源次郎氏:1909.11〜1916.5.31)
 ・5月 初の県会議員選挙で仲里金伍郎氏(平敷)が当選する。 


【1910年】(明治43)(村長・新垣源次郎氏)
 

【1911年】(明治44)(村長・新垣源次郎氏)
 ・村田精成民氏が村医として診療に従事する(運天)。
 ・今帰仁村青年会が結成される。



【1912年】(明治45)(大正元)(村長・新垣源次郎氏)


【1913年】(大正2)(村長・新垣源次郎氏)
 ・第二回県会議員選挙で仲里金五郎氏が当選する。
 ・旧3月 渡喜仁のウッパマで大鯨が捕獲される。

【1914年】(大正3)(村長・新垣源次郎氏)
 ・7月 第一次世界大戦はじまる。


【1915年】(大正4)(村長・新垣源次郎氏)
 ・北山城の管理を今泊に委任する。

【1916年】(大正5)(村長・新垣源次郎氏)
 ・今帰仁村役場、運天から仲宗根へ移転する。
 ・名護〜大井川間の山手線(郡道)が開通する。

【1917年】(大正6)(村長・与那嶺蒲助氏)(1916.6.1〜1924.2.9)
 ・6月 与那嶺蒲助氏を村長に任ず(字与那嶺)
 ・台南製糖工場が仲宗根にできる(〜大正10年)

【1918年】(大正7)(村長・与那嶺蒲助氏)
 ・11月 ドイツが降伏して第一次大戦が終わる。
 ・仲本カナさんが仲宗根で産婆を開業する。
 ・今泊〜湧川の一環道路の改修が行われる。
 ・村の西部耕地整理排水工事が施行される。

【1919年】(大正8)(村長・与那嶺蒲助氏)
 ・4月 天底小・兼次小に高等科をおく。
 ・5月7日皇太子殿下御成年式挙行後、村内各校運天に集合。旗行列をなして兼次校まで進行し、雨天のため自由解散となる。古宇利校職員児童は北山城趾を見学する。

【1920年】(大正9)(村長・与那嶺蒲助氏)
 ・4月 古宇利小に高等科をおく。
 ・6月 与那嶺蒲助、第一回民選村長に就任する。

 ・大阪市場における黒糖の暴騰・暴落が県経済に壊滅的な打撃をあたえる。
 ・普通町村制が施行される。
 ・字呉我山が創設される(玉城・天底・湧川の一部で)。
 ・平良新助氏(明治27年生)インペリアル・クロレー市へ移り住む。日本人会沖縄県人会長
  を勤める(移民を保護援助する)。

【1921年】(大正10)(村長・与那嶺蒲助氏)
 ・1月15日 忠魂碑除幕式が行われる。
 ・5月 第4回県会議員選挙で仲里金五郎氏が当選する。


【1922年】(大正11)(村長・与那嶺蒲助氏)
 ・6月23日 沖縄史蹟保存会によって運天森に「源為朝公上陸址之碑」が建立、
        除幕式が行われる。
 ・村公益質屋を設立する。
 ・7月2日 仲宗根宗助氏が村長に当選する。
 ・パラオ諸島コロール島に南洋庁が設置される。サイパン・ヤップ・パラオ・ポナペ・
  ヤルークの六支庁を置く。
 ・1922年以降年平均7000人の労働者が移民や出稼ぎとして県外へ。

  (昭和初期の県の人口は60万人)(出先地は南洋群島・京阪神・京浜地区へ)

【1923年】(大正12)(村長・与那嶺蒲助氏)
 ・関東地方大震災がおこる。


【1924年】(大正13)(村長・仲宗根宗助氏)(1924.11.10〜1928.11.9)
 ・11月29日 運天トンネル開通する。



【1925年】(大正14)(村長・仲宗根宗助氏)

 ・5月 第5回県会議員選挙で湧川善太郎氏当選する。


【1926年】(大正15)(昭和元)(村長・仲宗根宗助氏)
 ・4月20日 「青年訓練所令」が公布される。7月1日には各市町村に設置される。 
 ・金融恐慌が起こる。


【1927年】(昭和2)(村長:仲宗根宗助氏)



【1928年】(昭和3)(村長:山城全助氏)(1928.11.10〜1933.11.9)
 ・衆議院議員選挙
 ・昭和天皇の御大典(即位)で皇室の慶祝ブームにわく。
 ・8月11日 山城全助氏が村長に選任される。
 ・公益質屋を鉄筋コンクリートで改築する。

【1929年】(昭和4)(村長:山城全助氏)
 ・県会議員選挙


【1930年】(昭和5)(村長:山城全助氏)
 ・衆議員議員選挙
 ・5月11日 郵便局に公衆電話を架設する(最初の)。
 ・村一貫線(湧川〜今泊)まで県道に編入する。


【1931年】(昭和6)(村長:山城全助氏)
 ・満州事変が起こる。
 ・昭和恐慌へと。(ソテツ地獄)
 ・2月役場内に専用電話を架設する。 


【1932年】(昭和7)(村長代行:高良森蒲氏)
 ・2月 衆議院議員選挙
 ・助役高良森蒲氏が村長職を代行する。

【1933年】(昭和8)(村長:仲村豊七郎氏)(1933.11.10〜1937..11.9)
 ・5月 第7回県会議員選挙で仲宗根宗助氏が当選する。
 ・11月 仲村豊七郎氏が村長に選出される。



【1934年】(昭和9)(村長:仲村豊七郎氏)



【1935年】(昭和10)(村長:仲村豊七郎氏)
 ・4月 「青年学校令」が公布される。


【1936年】(昭和11)(村長:仲村豊七郎氏)


【1937年】(昭和12)(村長:玉城幸五郎氏)(1937.11.10〜1941.11.9)
 ・8月 「国民精神総動員実施要綱」を発表する。
     ・挙国一致 ・尽忠報国 ・堅忍持久 (三大スローガン)
 ・10月 国民精神総動員運動「標準語励行や風俗改良運動」(徹底化)
 ・日中戦争が始まる。
 ・11月 玉城幸五郎氏が村長に選出される。
 ・12月1日 謝名と仲宗根の一部から越地が分字する。(村会議員大嶺英松氏)
 ・青年運動場が設営される(今帰仁小学校の前)。
 ・字渡喜仁が分字する(勢理客・仲宗根・上運天・運天から)。
 

【1938年】(昭和13)(村長:玉城幸五郎氏)
 ・4月1日 国家総動員法の公布(愛国心高揚)


【1939年】(昭和14)(村長:玉城幸五郎氏)
 ・4月 「標準語励行県民運動要綱」が発表される。
 ・4月7日 「愛馬の日」を定める。
 ・満蒙開拓団1939年から送り出される。
 ・「南洋開発勤労隊」という名で移住を推進する。
 ・ノモハン事件が起こる。


【1940年】(昭和15)(村長:玉城幸五郎氏)
 ・紀元2000年奉祝行事が行われる。
  (次第に軍事優先となり戦争時体制が強化される。)
 ・平良新助氏ロサンゼル市へ移り、ニューヨークホテルを経営する。


【1941年】(昭和16)(村長:島袋松次郎)(1941.11.10〜1945.11.5)
 ・「三万戸十万人分村計画」が策定され、「二十町歩地主」などの宣伝文句で満州移民を募集。
 ・4月1日 「国民学校令」が施行される。国民学校と改められる。
 ・金武村ギンバル地区(中川)に南方進出の開拓者を養成する「県立拓南訓練所」
  が開設される。
 ・大陸開拓先遣隊として今帰仁、南風原、恩納から満州黒龍江省へ入植。
 ・11月常用服が「国民服」(国防色・カーキ色)となる。(制定は15年11月)
 ・隣保班(隣り組)が組織される。村や字の伝達事項が回覧板で伝える。
 ・11月 島袋松次郎氏が村長に選任される。
 ・12月8日 真珠湾攻撃。米英に宣戦布告する。

【1942年】(昭和17)(村長:島袋松次郎)

 ・7月 小倉侍従官来村する(超地を視察する。増産についての訓示)。
 ・9月 家庭用諸物資の配給帳制を実施する。
 ・金属類を兵器原料として供出する。
 ・5月 第9回県会議員選挙で宮里喜一氏(今泊)が当選する。
 ・平良新助氏、日米戦争のためヒラの収容所で抑留生活を送る。


【1943年】(昭和18)(村長:島袋松次郎)
 ・青年団、大日本婦人会、在郷軍人会の組織と活動強化される。
 ・甘藷の植え付けが平植から畔立植に強制実施させられる。
 ・食糧・衣料・灯油・たばこ等が統制される。
 ・満州開拓青年義勇軍、550名送り出される。今帰仁村からも加わる。
 ・北山神社の創設が沖縄県庁で決まる。


【1944年】(昭和19)(村長:島袋松次郎)
 ・4月 今帰仁青年学校が独立する。
 ・5月 伊江島飛行場の設営が始まる。
 ・7月 サイバン・テニアンの玉砕が報道される。
 ・8月 沖縄守備隊、井上大隊今帰仁小学校を兵舎とし駐留する。
 ・8月 青年学校生は伊江島飛行場、陣地構築に動員される。
 ・8月22日 疎開船津島丸が撃沈される。
 ・8月23日 今帰仁小学校、天底小学校の児童九州へ疎開で出発する(69名)。
 ・10・10 空襲を受ける。運天・仲宗根が被害受ける。
 ・10月  防空壕堀に本格的に取り組む。21〜45歳までの男子防衛隊として召集される。
 ・10月  旧制中学生下の青少年を集め御郷隊を編成する。

【1945年】(昭和20)(村長:島袋松次郎)(村長:松本吉英)(1945.11.10〜1950.4.16)
 ・1月23日 大空襲を受ける。
 ・1月 第二次現地防衛召集(17〜45歳の男子)
    中南部の住民は北部へ避難、疎開始まる)
    今帰仁村は首里・宜野湾・伊江の住民7000人を受け入れる。

 【運天港の状況】 
 ・3月23日 米軍の空襲があり、丁型(鮫竜)三隻を含め七隻の特殊潜航艇は勘定納湾の
         海底に沈座して被害をのがれた。夕刻桟橋にあった艇は爆撃を受け沈没する。
         戦う前に五隻を失う(残るは6六隻)。兵舎・倉庫などの施設はすべて失う。
 ・3月25日 夕刻沖根司令部から甲標的三隻(六隻の内)に攻撃命令が下る。隊員は桟橋の
        上で水杯を交わす。訓示したのは隊長の鶴田大尉。(第1小隊)
    ・1番艇(鮫竜209号) 22:00発進(帰還せず)
    ・2番艇(鮫竜210号) 23:00発進(帰還せず)
    ・3番艇(丙型67号)  24:00発進(26日帰還する)     
 ・3月26日(第2小隊)
    ・1番艇(丙型60号) 22:00発進(28日に帰還する)
    ・2番艇(鮫竜208号) 23:00発進予定(夕刻桟橋で爆撃を受け沈没)
    ・3番艇(丙64号) 24:00発進(28日に帰還する)
 ・3月30日
   ・丙型67号艇(河本小尉)再び出撃、途中故障のため31日帰還する。
 ・3月31日
   ・丙型60号艇(川島艇、敵機の空襲を避けるため岸壁に接触し接触し沈没。乗組員は無事。

 ・3月27日 仲宗根が空襲により全焼する。
 ・4月1日 米軍沖縄本島に上陸はじめる。
 ・4月3日 米駆逐艦、備瀬崎から古宇利島を結ぶ線を往来はじめる。
 ・4月4日 米駆逐艦、距離にして約2kmまで接近する。
 ・4月4日 空襲あり。今帰仁小学校校長住宅、東側教室以外は全壊する。
        兼次小学校は全壊する。
 ・4月5日 夜運天港から二隻の魚雷艇が出撃するが魚雷は命中しなかった。二隻帰港する。
 ・4月6日 運天港の基地は3月末以来間断なく空爆を受け壊滅状態となる。第27魚雷艇隊は
        陸戦に移行の準備にかかっていた。鮫竜隊も基地の物件を破壊、二隻の甲標的を
        処分、食糧兵器をトラックに満載し、第27魚雷艇隊(隊長白石大尉)とともに陸戦に
       移る。
 ・5月 米軍今帰仁に兵舎を次々と設営する。
 ・6月17日 謝名・越地から東側は羽地に移動命令発令、越地は主に我祖河に収容される。
 ・6月25日 平敷から西側と越地の残りが久志村大浦崎に強制移動させられる(〜11月帰村)。
 ・6月 今帰仁小学校や越地など至るところコーラルが敷かれ、米軍兵士のテント宿舎が設営
      される。
 ・8月15日 終戦を収容地で聞く。
 ・10月31日 米軍海軍々政長官の布告で羽地疎開者に帰村命令が出される。
 ・11月2日 久志村収容の村民に帰村命令が出る。
 ・11月8日 戦後、初代村長に松本吉英氏を選出する。
 ・11月16日 食糧対策・村建設計画、ミシン部設置、牧場設置、製材部、鍛治屋部、医療部、
         教育部などを設置。村民の衣料救済、畜産増産、農具配給、住宅建築、医療
         救済、子弟の教育などの実施計画の協議を行う。
 ・11月26日 教育関係者を徴集し、教育行政について協議する。1945年12月3日を
         開校期日と決定する。 
 ・12月 小学校再開する(児童数320名)
      帰村後、食糧、衣類など軍援助を受ける。(食糧物資:メリケン粉・乾燥ジャガイモ・
      ポーク・ジャム・トマトジュース・カボチャ缶詰・肉缶詰・粉ミルクなど)

         (衣料品:軍払下げの毛布・HBT・蚊帳・GIシャツ・軍人用オーバー等)
    記念運動場や仲原馬場は米軍j兵器やトラックや軍用物資の集積所となっていた。
    忠魂碑側には地下水上げポンプが設置され水が溢れていた。